「1年生になったら」という有名な童謡があって,歌詞の中に「友達100人できるかな」というのがある。
100人も友達がいる人って信用できるかなあ?
今日は「友達100人できるかなの呪縛を解こう。友達は量より質が大切」という記事を読んだ。
昔の同僚に「恩師」と「親友」が何十人もいるような人がいた。「親友の結婚」「〇〇先生は私の恩師なんです」という話を何十回も聞いた。
その人に対する私の感想は「正気か?」「上っ面だけの付き合いが好きなのかな?」だった。
私には心置き無く話せる友人が数人いる。結婚披露宴を兼ねた食事会にもその数人に来てもらった。丸いテーブル一席で足りる人数。親友というか,隠し事なく何でも話せて共感できる友人が一人いる。その友人は外国人で外国に住んでいるので披露宴には来ていない。やはり外国人だが結婚の証人になってくれた友人が一人。
「恩師」は3人かな?
一人は小学校の1〜2年生の持ち上がり担任の先生。授業中に一人で喋り出したり立ち上がったり,そうかと思えば発表で指名されると真っ赤になって遠くを見ていたり,他の子達と全然会話が噛み合わなかったり一緒に遊べなかったりした私を根気よく見てくれた。「指導」はちょっと無理な状態だったので「見守り」だったと思う。小学校3年生以降中学卒業までは学校の先生に邪魔者扱いされてきたのから,あの先生は「恩師」だと思う。
高校は県内では割と知られた進学校だったので,先生達は生徒のことにはあまり構わず休んでも気づかないくらいだった。
大学で出会った「恩師」が2人。一人は芸術科目の教授で,もう一人はアメリカ人の教授だった。芸術の教授には「お前さんはそのままでいいよ。それが個性だよ。」と言ってもらった。アメリカ人の教授には英語で聖書を読む講義を受けた。その教授も「あなたはいろいろなことができるんですよ。素晴らしい個性があるんです。」と言ってくれた。大学生になって生まれて初めて先生に褒められた感じがした。
友人達に出会ったのも高校や大学や社会人になってから。
確かに小学校や中学校の同級生も「ともだち」なのかもしれないけれど,どうしても間に見えない壁があって近づけない。彼らのせいではなくて,それは私が発達障害を持っていたからなのだ。それはよくわかっている。
でも,発達障害がなくても友達があまりいない人はいるし,「友達100人できないと人間としてダメなのか?」なんて思わなければいけないとしたらあんまりだ。
自分が小中学生の頃,本を読みたくて図書室に行きたいのに「休み時間には友達と外で遊びなさい。」と強制的に校庭に出そうとする教員がいた。自分が教員になってからも同じような教員方に会ってきた。「休み時間に一人でいる子は問題児だ」と言う人たち。でもその一人ぼっちでいた子が,例えば「作文」「絵画」「読書感想文」等々の一人で仕上げなければいけないもので賞を取ったりしたら,態度を変える。
そういうのが苦手だった。
自分にとっては,これからも友達は「量より質」というか「量より性質」で,一緒にいても苦しくない人なんだと思う。
それに動物がいる。動物,それから植物や空気や空や川やなんだかんだ自然に話しかけている時はとてもリラックスできるのだ。