友達があまりいなくても幸せかもしれない

「1年生になったら」という有名な童謡があって,歌詞の中に「友達100人できるかな」というのがある。

100人も友達がいる人って信用できるかなあ?

今日は「友達100人できるかなの呪縛を解こう。友達は量より質が大切」という記事を読んだ。

https://suits-woman.jp/column/himote/220031/

昔の同僚に「恩師」と「親友」が何十人もいるような人がいた。「親友の結婚」「〇〇先生は私の恩師なんです」という話を何十回も聞いた。

その人に対する私の感想は「正気か?」「上っ面だけの付き合いが好きなのかな?」だった。

私には心置き無く話せる友人が数人いる。結婚披露宴を兼ねた食事会にもその数人に来てもらった。丸いテーブル一席で足りる人数。親友というか,隠し事なく何でも話せて共感できる友人が一人いる。その友人は外国人で外国に住んでいるので披露宴には来ていない。やはり外国人だが結婚の証人になってくれた友人が一人。

「恩師」は3人かな?  

一人は小学校の1〜2年生の持ち上がり担任の先生。授業中に一人で喋り出したり立ち上がったり,そうかと思えば発表で指名されると真っ赤になって遠くを見ていたり,他の子達と全然会話が噛み合わなかったり一緒に遊べなかったりした私を根気よく見てくれた。「指導」はちょっと無理な状態だったので「見守り」だったと思う。小学校3年生以降中学卒業までは学校の先生に邪魔者扱いされてきたのから,あの先生は「恩師」だと思う。

高校は県内では割と知られた進学校だったので,先生達は生徒のことにはあまり構わず休んでも気づかないくらいだった。

大学で出会った「恩師」が2人。一人は芸術科目の教授で,もう一人はアメリカ人の教授だった。芸術の教授には「お前さんはそのままでいいよ。それが個性だよ。」と言ってもらった。アメリカ人の教授には英語で聖書を読む講義を受けた。その教授も「あなたはいろいろなことができるんですよ。素晴らしい個性があるんです。」と言ってくれた。大学生になって生まれて初めて先生に褒められた感じがした。

友人達に出会ったのも高校や大学や社会人になってから。

確かに小学校や中学校の同級生も「ともだち」なのかもしれないけれど,どうしても間に見えない壁があって近づけない。彼らのせいではなくて,それは私が発達障害を持っていたからなのだ。それはよくわかっている。

でも,発達障害がなくても友達があまりいない人はいるし,「友達100人できないと人間としてダメなのか?」なんて思わなければいけないとしたらあんまりだ。

自分が小中学生の頃,本を読みたくて図書室に行きたいのに「休み時間には友達と外で遊びなさい。」と強制的に校庭に出そうとする教員がいた。自分が教員になってからも同じような教員方に会ってきた。「休み時間に一人でいる子は問題児だ」と言う人たち。でもその一人ぼっちでいた子が,例えば「作文」「絵画」「読書感想文」等々の一人で仕上げなければいけないもので賞を取ったりしたら,態度を変える。

そういうのが苦手だった。

自分にとっては,これからも友達は「量より質」というか「量より性質」で,一緒にいても苦しくない人なんだと思う。

それに動物がいる。動物,それから植物や空気や空や川やなんだかんだ自然に話しかけている時はとてもリラックスできるのだ。

動けない日もある

大分調子が良くなってきたつもりだったが,動けない日は本当に動けない。夏だというのに毛布にくるまってソファの上でじっとしている。「あ,熱中症になるとまずいな。」と思って窓を閉めてエアコンをつける。

柴犬のナナを庭に出して運動させるためはき出し窓を開けておいたのだが,建物の向きの関係で風は入ってこない。室内は窓を閉めてカーテンを引いておけば外よりかなり涼しいのだが,窓を開けているとそうもいかない。でもナナが庭をタッタッタと走っているのを見るととても嬉しい。

ナナも外気温35度などという状態では長くは外にいられない。が,幸いなことにうちの庭には大きなクヌギ,クワ,ニセアカシア,モミジの木があるので日陰になるので,ナナは10分ぐらいは走っている。いい加減にあつい(最近の夏は「暑い」というより「熱い」感じになる)となると,ナナは「中に入れてよ」とアミドン(壁ドンみたいに網戸に当たってくる)してくるので網戸に穴があく前に室内に入れないといけない。

今日は天気が良かったから,本当は夕方涼しくなってからナナの散歩に行きたかったのだ。

けれどここ数日また低空飛行になってきた。昨日は散歩に行けたが一昨日と先一昨日は行けなかった。なので庭で走ってもらう。

ペットがいるから,何とか動いて生きている気がする。「ペットの世話が大変でしょう」と言われることもあるけれど,彼らがいるから世話しなくちゃいけないから,彼らに心のお世話をしてもらっているから,どうにかこうにか立ち上がる。

動けない時には「ナナちゃんごめんね」と謝りながら,モフモフさせてもらう。猫をぼけ〜っとなで,カメに話しかける。

ASDのある場合,慣れないものを受け入れがたくて苦手なこともあるけれど,好きな場合はものすごく好きというのがあって,自分は動物が大好きだし,人間と関わると疲れ切ってエネルギーが枯渇するけれど動物からはエネルギーをもらえる。

動ける日も動けない日も動物達に感謝する。

しかし,今週はすごく疲れる。理由はわかっているんだが。やっぱり参った。

カサンドラ症候群にならないために でも頑張らない①

 姉との関係については,いつも悩むところである。姉も悩んでいるようである。お互いに「こいつは何で一方的に喋っているんだ?」と思っているかもしれない。

 ちょっと覚え書きとして姉との攻防を書いておく。

    ある日親戚(実母末弟の家族)に食事を一緒にどうかと誘われ,叔父の長男嫁が迎えに来てくれて、姉が外出したらしい。夜10時から11時頃にかけて何回もラインがきた。本人が吐き出したいことを吐き出しているようだった。何時間もかかりそうなので,付き合いきれないので寝るように伝えた。

 なかなか言うことを聞かずずっと喋っていた。内容は,叔父宅でついつい気持ちを吐き出してしまったこと,現在は休職中で収入はないこと。なのに理解してもらえないこと。

 以前から色々な人達に「学校の先生は休みが多くていいね」「休んでいてもお給料をもらえるからいいね」と言われることはあった。そのたびに「教員には夏休みも冬休みも春休みもない」「幼児児童生徒学生がいない時も教員は仕事をしている(事務仕事だったり教材作成だったり)「休職中は給料は出ない」「残業手当は出ない」「毎日数時間残業があり休日出勤もあるがサービス残業」と話しているのに全然理解してもらえない。その辛さは私にもわかる。自分もそうだったから。

 叔父達との会話の中で,私について彼女が勝手に解釈していることを喋った模様。「お前も仕事に絶望していると伝えた」という。 

 私は自分の仕事については「もう自分がやることはやり尽くしたから良いかなと思うんだ。病気や障害のこともあるし,今は心身を休ませて未来を考える時間にしたい。」と話したことはあったが「絶望した」などとは一言も言ったことはない。

  姉は自分が言いたいことだけ言って考えたいことだけ考えているので,自分の気持ちと混同している。私が「そんなことは言ってないよ。これこれこういう話はしたよ。」と訂正しても絶対に彼女には届かない。

 姉とのやりとりはすごく疲れる。

 姉に限らず誰と話しても私はすごく疲れてしまうのだが。姉との会話のこの不毛さはいったい何なのだろう。

 姉は最近自閉スペクトル(アスペルガー障害)と診断されたが,本人は絶対に違うと思っている。医師がどんなに説明しても聞いてはいない。かといって医師に対して何を話すわけでもない。

 姉はとても知識が豊富で非常にお勉強ができる人だった。だから社会的地位は普通にある。だが,彼女の知識は決して誰かと共有できない。

 子どもの頃の私にとっては,姉は自慢の姉だったのだ。それが大人になるにつれ「この人何言ってるんだ?」になってしまった。

 姉本人はいたって良い人である。とてもとても善人で,嘘がつけない。嘘がつけないから空気なんて全然読めない。他人と目を合わせることはないが別に嫌がらせをしているわけではない。

 姉が嫌いなわけではないが,今は私自身が精神的にも身体的にも参っているので,うっかり彼女に付き合ったら嫌いになる。いやなりつつある。彼女を嫌いになりたくないので,今は程よい距離の取り方を考えたい。

カサンドラ症候群にならないために頑張る②

このタイトルが出てきたのは,姉から電話があったからである。

姉が言うには「外出から戻ったら家の鍵が開かない。どうすれば開くのか?」

普通は鍵で開けるものである。

「鍵をさして回す」と答えたら「それはやった。それでも開かない。もう10分もやっているのに開かない。」

それを私にどうしろと言うのか?   

何時間もかけて姉のいる所まで出向いてドアの鍵を開けろと言うのか。

「いいか,心を無にしろ。」と私は言った。「そして一度鍵を抜いて,ゆっくり挿してゆっくり回す。慌てるな。」

「そんな精神論を聞いているんじゃない。」と姉は半泣きであった。

「いや,精神論じゃなくて,慌てるなと言うことだ。慌ててガチャガチャ乱暴にしたら鍵穴の中が傷ついて本当に開かなくなるかもしれない。」と私。

「もう中が傷ついてるんだ。どうして傷つくの。もう開かなくなったんだ。」と姉。

「いやだから開かないとは言っていない。でもそれ以上傷つけたらダメでしょう。」と私。

「深呼吸して心を沈めて,絶対にガチャガチャしないでゆっくり鍵を回そう。じゃあ。」と言って返事を待たずにこちらから電話を切った。

30分ほどしてから「どうだ?」とLINEを送ったところ「開いた」と返信があった。

子どもの頃から,姉とのやりとりはこんな感じ。話が通じている気がしない。相手にすると自分が辛くなる。しかし子どもの頃から最強にお勉強ができた姉なので,いくら私が姉との関係で苦労すると言っても誰にも通じない。

適当なところで切り上げるしかないのかもしれない。

カサンドラ症候群にならないために頑張る①

カサンドラ症候群というのは,正しくは「カサンドラ情動剥奪障害」というらしい。

身内(特に配偶者)に発達障害(主に自閉スペクトル,アスペルガー症候群と言われていたもの)がある場合,相手を傷つけないように気をつけたり,相手の伝えたいことを先読みしたりして自分の感情がおざなりになってしまう。

そこまでやっても相手はこちらの話は聞いていないしコミュニケーションが取れない。つまり,相手は相手自身のことしか興味関心はないので,相互のやりとりではなく一方的に相手の要望だけが通ってしまうことでコミュニケーションが成立しない。

アスペルガー症候群の人というのは大学教授だったり学校の先生だったり公務員だったりと,何となく「良さげ」な仕事についていることが多く外面は悪くないので,身内としてその人と関わることがどれだけ大変で苦しいことかを訴えようとしても,「そんなはずはない」「気のせい」など,訴えた側が信用してもらえない状態になる。

自分が言っていることが誰にも信用されないので深く悩み傷つき自己肯定感が低くなる。自分のことも信じられなくなる。心身ともに病み始めて,疲労感の蓄積とか頭痛とか食欲不振とかパニック症状などが起こる(症状はさまざま)。

この「いくら訴えても信用してもらえない状態」を,ギリシア神話のトロイ戦争編に出てきたカサンドラという女性預言者の伝説になぞらえて「カサンドラ情動剥奪障害」というそうだ。

カサンドラはトロイの王女で,ギリシアから「パリスの審判」によって決めた「世界一美人」のヘレンを略奪して結婚したパリスの姉妹でアポロンから授かった予言の能力があったが,アポロンの求愛を断ったために「誰もカサンドラの予言は信じない」という呪いをかけられてしまった,と述べられている。

自閉スペクトルは女性より男性の方が割合がとても高いので,そのパートナーである女性がカサンドラ情動剥奪障害になることが多いという。

「信じてもらえない予言」という意味で言えば,パートナーに限らず家族全員が関係することだってあるはずなのだが。

私の身内には自閉スペクトルを有する者が多い。夫にも発達障害はあると私は踏んでいる。

夫は母国語の他に英語と日本語とイタリア語を話す。耳で聞いた言葉を記憶し再現する能力が高いが,彼はアイディアが閃くと突然180度方向転換し,それ以前に進んでいた何かしらの仕事というか目的を忘れて突っ走ってしまう。人を疑うことができず,文字や言葉をそのままに受け取ってよく騙される。反対に間違って疑いが生じると相手への誤解を解くのが難しい。一度誤った状態で入力されたデータを修正することができない。しかし非常に優しい人で,物腰も柔らかく,誰も彼がトンチンカンなことを始めるとは思わない。それをカバーするために私がどれだけ苦労するか誰も信じない。

しかしそれ以上に,両親と姉が酷かった。全員教職。父は校長で定年退職した。姉は旧帝大から博士号を取得しており,数カ国語で新聞や論文を読み自分でも数カ国後で論文を書く。父は古文書をそのままの文字で読める人だった。母は料理や編み物など一度見たり触れたりしたものをそっくりに再現できる人だった(編み物や裁縫では型紙も計算も必要としなかった)。両親ともに古文書の他に梵語も読めた。

両親は自分の思い通りにならないことや想定外のことが起こると癇癪を起こした。姉は何かに夢中になると寝食を忘れトイレに行くことも忘れる。そんな彼らとどうやってコミュニケーションを取れるというのか。だが社会的立場があるので,私が彼らのことをああだこうだ言っても誰も信じない。身内を謙遜していると思われるのが関の山である。

夫は,何となく慣れてきた。そして彼に合わせることをやめた。しつこく「〇〇は何を意味しているの?」「それはなぜ?」「どうしてそういうことを言うの?」「何を伝えたいの?」と聞くようにした。なかなか難しい。相変わらず彼からは「別に」で終わりそうになるので「それで終わりにするな。」と半強制的に聞き出すようになった。コミュニケーションなのか尋問なのか,と言う状態ではあるが話はできるようになった。ちなみに英語と日本語とアラビア語が混じった会話になる。

カサンドラ症候群にならないように,自分にできることからするしかないなと思う。

ありがとう「プリズン・ブレイク」主演俳優ASDをカミングアウト

https://news.yahoo.co.jp/articles/954e5ded2b904e50a35780e23753763162c5ec03

Yahooに出ていたニュース。元の記事はコスモポリタン誌。

日本でも2000年代に人気があったアメリカのドラマ「プリズン・ブレイク」で主演していた俳優,ウェントワース・ミラー氏が40歳代になってから「自閉症」と診断されたという記事。

「ああ,また芸能人だったなぁ。」とかぼけっと受け止めた。ADHDやASDをカミングアウトするのは芸能人とスポーツ関連の人が多いけれど,本当は他の職業の人にももっともっといるだろう。でも本人も周りの人達も気づいていない,或いはカミングアウトできないでいるのだろう。

自分の場合,カミングアウトが難しいのか難しくないのかよくわからない。多分,同じ職業でも職場によって違うだろうとは思う。

今飲んでいる薬はジェイゾロフト(抗うつ薬),デパス(精神安定,緊張をほぐす),エスゾピクロン(睡眠薬),抗うつ剤の副作用で逆流性食道炎と胃炎がひどいためスルピリド(胃薬)ナウゼリン(吐き気どめ)。ザイザル(アレルギーの薬。食物・花粉・ダスト・接触アレルギー等があるので)

初めて飲んだ抗うつ剤はパキシルだったが,副作用で横になると胃液や胃の中身が逆流してしまい休養も睡眠も取れなくなってしまった。その時かかっていた心療内科の先生が感情の起伏が激しい人で(診療開始間も無くや休憩後は機嫌がいいが,疲れてくると非常に怒りっぽくなり患者を馬鹿にしたり罵倒したりしてくる),「副作用で眠れない」などと言おうものなら,「あんた何言ってるの? ふざけてるの? よその病院に行ってもいいのよ。でも自分の思い通りになるなんて思ったらダメよ。」ときつい言葉をぶつけてくるような人だった。

なので,元々の持病(無痛性甲状腺炎,ヒルシュスプルング病,アレルギー,片頭痛)で他の病院にもかかっていたので事情を話したところ,ジェイゾロフトを処方された。おくすり手帳があったので,その後は問題なく持病でお世話になっていた病院からジェイゾロフトとデパスを処方してもらえるようになった。

ADHDとASDがあることはわかっていたのだが,検査をして発達障害と診断されたのは5年前,再検査でやはりADHDとASDがあると診断されたのが半年前。5年前に診断を受けた際にADHDの薬であるストラテラも処方されたのだが,体質に合わず吐きまくってしまったので「服用は無理。ストラテラ中止」となった。

今は大体薬があっている。ADHD自体に対しては「指差し確認」「見えるようにする(透明の袋や目の前に必要物を置くなど)」といった行動療法というか薬以外の面から対応するように臨床心理士さんのカウンセリングで伝えると継続した方が良いと言われた。

自分の仕事は人と関わる内容だったのだが,相手が子どもであれば平気だが大人だと非常に苦しい,ということがわかっていた。子どもは突然色々なことが閃いてそれを行動に移すアクティブさがあるけれど,大人はまず否定から入る,というのが原因であるのはなんとなく感じた。

否定から入るってどうなんだろう? それで人生楽しいのだろうか。というか,「あれは危ないからダメ,これも危ないからダメ」「前例がないからダメ」と何もかも否定されるのはASDがある自分は「身動き取れない」状態になるしかないのだが,多分ASDやADHDがなくても全否定されたら身動きできなくなると思う。

会議でもなんでも全部「でも」「だって」「やっぱり無理」で堂々巡り。それに会議と言っても何を話し合うわけでもない,レジメを読み上げるだけ。レジメなんて会議の前に目を通しておけば会議の場ではもっと話し合いができるしアイディアだって出せるだろうに。

自分が知っている人でアイディアが次々浮かんでくる羨ましい人がいた。だが頭の回転に口が追いつかず,表現で手間取ってイライラし,うろうろ歩き始めたり声をあららげたりすることがあった。すると周りはその人の行動を否定する。アイディアそのものは見ない。

そういうことが何度もあった。見ていて辛い。

適応障害や鬱の原因はそれだけではないが,それが原因の一つであることはわかっている。ADHDとASDだけが原因で障害が出てきたわけではない。

自分もカミングアウトしたい。というか何度もしてきたのだが「いやいや,そんな」「冗談ですよねぇ」とスルーされてきただけ。このスルーするという行為は相手の気遣いかもしれないが,かえって落ち込む。ADHDやASDというものが社会的に否定されているような気がするから。

否定されるのは嫌だ。肯定されれば誰だって嬉しい。

せめて自分だけは自分を肯定していたい。

そんなわけで,今日は「ウェントワース・ミラーさん,ありがとう」な気分だ。

足の爪を剥がしちゃった件

昨日うっかり両足の小指の爪を剥がしてしまった。

子どもの頃に何度も爪を剥がしたので,小指の爪が縦に3つに分かれて生えてくるようになってしまった。爪の生えてくるところの根っこを傷つけたのかもしれない。

暑かったので靴下を脱いでボ〜ッとしていた時,その3つに分かれてボコンボコンとなった爪に手が触ってしまった。

そうなるともう止まらなくなってしまった。

「やめないと爪が剥がれる,いかん手を離さなければいけない」と思うのに,手は動き続け,あっという間に左足の爪が剥がれてしまった。そこで止まらず右足まで気になって気になって,気づけば右足の小指も爪が剥がれてスプラッタ。化膿しないように清潔にして様子を見ることにする。

止めようとしても自分が止まらない。生傷は絶えない。

ADHD・ASDがある自分と仕事

今日の弁護士ドットコムニュースに面白い記事があった。見出しは「発達障害の当事者が「管理職」になって感じたこと、工夫できたこと」だった。この「当事者」というのはreiさんというTwitterで同じ悩みのある人の相談に答えている方だそうだ。KADOKAWAから「生きてるだけで、疲労困憊。」というエッセイを出されたというニュース。

https://www.bengo4.com/c_5/n_13333/

発達障害があって管理職をしているという人という見出しに惹かれて記事を読んでみた。

この方,reiさんもADHDとASDがあるそうだ。

最近ではすごく当たり前のように使われるADHDとかASDという言葉は20年ほど前にはほとんど知られていなかった。特別支援教育に(当時は養護教育)携わる人や精神科や心療内科に関わる人の間で知られていたぐらい。一般学校(当時は普通学校)では全くと言っていいくらい知られていなかった。LDと一緒にされていたと思う。そして一般学校ではLDでさえあまり理解されていなかった。

reiさんはインタビューの中で,「ADHDの時間感覚の欠如」と「ASD『空気を読む触覚の欠落のようなもの』」とに触れていた。

自分も時間感覚は欠如している方かもしれない。

順を追って計画を立てて作業に取り掛かるということができない。側から見ていると「いつ始めるんだ?」「間に合うのか?」と非常に精神にきついものがくるらしい。いざ取り掛かってしまえばすぐ終わるのだが。reiさんも「取り掛かってからの過集中」に触れているけれど,取り掛かってしまうと異常に集中して作業が終わってしまうので締切に間に合うのだ。それが周りの人には「ふざけている」「仕事をなめている」と見えることもあるだろう。それはわかる。

時間感覚だけではない。Out of sight out of mind. でもある。視界にないもの(一度視界から外れたもの)は存在しなくなるのだ。

それを忘れると困るから,自分がしてきたことは「指差し確認」「ノートにメモしてもノートを忘れるから付箋に書いて目の前の机などに貼る」「絶対忘れてはいけないことはB5以上の大きさの紙に書いて通勤バッグに貼り付ける」「手や腕に油性ペンで書く」など。PCが仕事の中で大きな位置を占めるようになってからはラップトップに付箋を貼り付けるなどしていた(ラップトップのディスプレイの付箋機能ではない、紙の付箋である)。

それから不思議なことに,PC作業は周りの人より早い。PCには人とのコミュニケーションのようなものがないからかもしれない。

20年以上前に「あなたの症状はADHDです。」と言った心療内科の先生は,「コンピュータはあなたに向いていると思います。」とも言っていた。

ADHDやASDがあっても仕事はできないわけではない。知人のASD研究者の方など「大学教授なんてほとんど自閉スペクトラムですよ。」と言っていたが,自分の身内にいる大学教授はどう見てもASDである。

小学校の先生や特別支援学校の先生など,児童生徒の興味関心をひき学習へ引き込むために,ほとんどEテレの幼児教育番組の「おにいさん」「おねえさん」のテンションである。時には「正気か?」と言われそうな突拍子もないアイディアが飛び出してくる。ADHDのある人の中にはそういう仕事が向いている人がいる。

ADHDやASDだと診断された時に「そうかぁ,ひらめきがあるんだぁ。」「一つのことにめちゃくちゃ集中できるかも。」とかポジティブに受け止めると気が楽なんじゃないかな。

定期通院日 低気圧がしんどい

適応障害と鬱病で,療養しながら月に2回程度通院している。

2日に1回ぐらいは食事と言えるような状態で固形物を食べられるようになった。薬のせいかもしれないし,流動食みたいなものは時折飲んでいるので体重は仕事をしていた頃からちょっとしか減っていない。

ADHDがあるから,待合室で待つ間,家族と一緒に来院した人が話をしているのが聞こえると,その話の内容に反応しそうになってしまう。反論しそうになったり同調しそうになったりするから,声を出さないように,動かないように,と自分を押さえ込む。全く見知らぬ人間がいきなり話しかけたら誰だってびっくりするだろうことはわかっているから(子供の頃はそれがわからなかった)。

今日は試しに携帯に入っている音楽を聴きながら待ってみた。待合室でもBGMはあるが,オルゴールっぽい音で何だかぽわんとした音楽で,何だかイライラしてしまうから。時々ジャズをかけてくれる時は我慢できるのだが。

しかし,新しいイヤホンが耳からすぐにスポッと抜けてしまうので,それが気になって気になって逆効果だった。イライラした。家で使っているのはイヤホンではなくノイズキャンセルのヘッドフォンなので,次は多少待合室で目立ってもいいからヘッドフォンを持って行こうかと思う。

診察室に入り「調子はどうですか。」と尋ねられて,「可も無く不可も無くです」と答えてしまった。

本当は,かなり不可な部分がある。それでも食べられるようになっただけマシかな,と自分に言い聞かせている。

自分が今どこにいるのか,何をしているのか,今そんなことを考えているのは自分なのか,今周りにある世界は現実なのか違うのか,よくわからない。

天気が悪いせいなのか。頭が変。台風が近づいているからとても調子が悪い。

ADHD・ASDがあって困ること その1

このところ有名人で発達障害をカミングアウトする人が増えてきたけれど,ADHD(注意欠陥性多動障害)が多いのだろうか? それ以外なのか?  ASD(自閉スペクトラム症)はあまり聞かないような気がする。

数年前に地元の国立大学で教員免許更新講習で学習障害についての講義を受講した際,「この人は私と似た匂いがするぞ」という感じの教授が,「障害というのは,生活する上で障害があれば障害だけれど,障害なく生活できれば障害とも言えなくなってくるので,深く考えすぎないように。」と言っていた。

それで言えば,有名な人達の中にも生活に障害が出ている人がいるのかもしれないし,本当は生活上の障害はないけれど診断的に障害と言っている人がいるのかもしれない。

私は? 私はどうだろう? 生活上の障害は出ている。それは確か。そして今は適応障害と鬱病になっている。小中学生の時は自傷(剃刀で腕や手を切る,手足の爪を剥がす,髪や眉毛を手で力任せに引っこ抜くなど)。10代から20代にかけては摂食障害のため体重は1ヶ月に10キロ単位で増減していた。片方の耳がストレス性突発性難聴で聞こえなくなった。摂食障害と突発性難聴は治ったが(と思う)。

生活上の不都合が多すぎるので咄嗟に全部は思い出せない。一番困ることは,目の前にないものは存在しなくなることだろうか。

Out of sight out of mind. という英語の諺があって「去る者は日々に疎し」と訳されているが,「日々にうとし」どころか視界から外れた瞬間に「うとし」になってしまう。その結果,「鍋を火にかけたまま忘れる」「鍵をかけ忘れる」「なんでもどこかに置き忘れる」「机に置いた物の存在が見えなくなりその上にまた物を置く(自分の目には片付いているように見えている)」「自分がどこで何をしているのか忘れる」などがある。忘れるというよりも,情報が上書きされてしまうのに似ている。

1メートル先に目が向いた瞬間に30センチメートルに先あるストーブの存在を忘れて前進して突っ込みストーブに手をついて火傷,ということがあった。これは目の前にストーブがあることはもちろん見えていて知ってるたのだが,1メートル先に目が向いたことで新しい画像が脳に上書きされてしまい手前の風景は消されてしまうということ。

はしごに登って他のものに気を取られ自分がどこにいるのか忘れ,別の作業をしようと手と足を放して転落,ということもあった。

生傷は絶えない。

普段づかいのバッグ,中身が全部見えるように上から左右にかけて大きくジッパーが開くタイプしか使えない。小物類をポーチに入れると存在を忘れるので,ジップロックのような透明のファスナー付きの袋に分けて外からも見えるようにしている。

おしゃれとは無縁になる。

自分の場合は服装も一般的な組み合わせができない。

これはどう説明していいのかわからないけれど,草間彌生のようにめちゃくちゃ派手になったり,柄物に柄物でさらに柄物を重ねる組み合わせをしたりする。

服の組み合わせを考えることができない。あるいはこだわりを手放せない。何をどういう順番で着ればいいのかわからない。仕事に行く時には,前の晩に組み合わせを決めて順番に並べておかなければならない。それとADHDだけでなくASDのせいもあるけれど,いつも同じデザインの服を同じ組み合わせで着るのが一番気持ちは楽だと思う。

でも制服は大嫌い。同じデザインの服をいつも着るのが楽と言っても,それは毎日同じ服を着続けることではないし(雑菌が繁殖しそうで怖くなる),周りにいる人間が皆同じ服を着ているのを見ると恐怖のようなものを覚える。同じ形がたくさんかたまった集合体に恐怖する傾向があるからだろう。本当に本当に怖い。

自分の服は,上はボタンなどがあまりなく頭からかぶるタイプ,下はゆったりした形,どちらも綿ジャージのような肌触りの良い素材が好きだ。感覚過敏のせいもあるが,平織素材はカシャカシャした感じで苦手だ。やはり過敏それと接触アレルギーのため,内側についているブランド名やサイズのタブが当たるのがイヤでイヤで気持ちが悪くて購入したら必ずハサミで切り取ってしまう。

いつも同じデザインの服を着ていると言っても,スティーブ・ジョブズだったら誰も文句は言わないのだろうが,私が同じデザインの服を大量買いするのはあまり関心されない。結婚当初の夫は「どうして同じデザインの服ばかり買うの?」と随分驚いていた。すり減ったり破れたりするたびに同じデザインか似た物を買っているので,今では夫も慣れてきたような気がする。

普通の服装が普通にできる人はすごいと思う。