親をサバイバル①

亡くなった両親と紅玉りんごと夫のことを考えていたら,まるで自分と両親が良い家族関係だったかのような錯覚をしてしまう。

私の両親は,外面は非常に良かったが実は毒親だった。私はなんとか逃げ出したが,姉は両親のために心を蝕まれてしまった。そのおかげで,今姉との関係を適切に保つのが難しい。

父親も母親も,今でいうところのモラハラ人間で,子どもというのは自分がかつて望んでも得られなかった賞賛や見栄を満足させるための道具あり,親の手駒であると無意識にであっただろうが信じ込んでいた。子どもが自分達の思い通りにならないと,罵声での人格否定から張り手やゲンコツがとんできた。母親には包丁を持って「(自分の思い通りにならないなら)死んでしまえ」と追いかけられた。また父親は自分の実の母親である私の祖母を,私の母親とともに虐待していた。

夕食の場面は毎日戦場だった。父親が祖母を面罵し時にはこづいたり殴ったり,母親はそれを見ながらもしれっとしていた。姉は怒鳴り合いの食卓がいづらくなると部屋に閉じこもってしまい,私が一人で両親に対して祖母を庇って,それが気に食わない父親に怒声を浴びせられて場合によっては殴られた。祖母を庇うということが,私の父親にとっては自分に逆らうこと,自分を否定し侮辱することと受け止められたのかもしれない。

父親は母親の手前「妻を第一にする夫」を演じたかったのだろうか?それもあるだろうが,おそらく「家族の中に一人犠牲を作ること」が父親にとっての家族支配のルールの一つだったのだろう。私もまた,祖母を庇いつつも「自分が精神的肉体的に痛めつけられない方法」を探り,目の前の現実から逃避することもあった。祖母にきつい物言いをしてしまうとか,結果的に両親の狙う方向に行ってしまうとか。

幼児期から毎日が両親との戦いだった。休日に両親が家にいるのが嫌でたまらなかった。

そもそも私の日常生活の世話をしてくれていたのは祖母であって,両親ではなかった。持病のヒルシュスプルング病で度々起こる腸閉塞に苦しむ時,私を背負って病院まで走ってくれたのは祖母だった。母親は私や姉の健康状態に無関心だった。父親は「具合が悪い」などと言おうものなら「ふざけるな」「忙しいんだ」「お前が悪い」と怒り出した。祖母がいなかったら,私は幼児期に命を落としていたと思う。もし親から逃げ出していなかったら,やっぱり私は今こうして生きていなかったと思う。子供の頃から繰り返し自傷していたから。

幼児期は,私は風呂に入る時も祖母に任せられていた。昔の風呂は釜で湯を沸かすので,風呂が深いし周りの釜は熱されると大変熱くなり触れると火傷をするほどだった。小学校に上がる前までの家は茅葺の日本家屋で馬屋まであって,だが風呂は家の外にあった。祖母が何かしらの作業で手を離せない時には一人で夜屋外に出るのが億劫で,祖母が農繁期で近所の手伝いで忙しい時などは私は垢まみれになっていた。母親はそんな私を見て「汚いから(臭いから)近づかないで」と言うこともあった。時には濡れた布で顔をゴシゴシ拭かれることもあった。

それとは別の選択で,姉は自傷の一つで「風呂に入らない」という選択をすることがあった。そのためだろうか,今の姉は強迫的に風呂に入りたがり,体調がすぐれないのに無理をして風呂場で倒れることもあり,それが非常に問題である。

子ども時代の私の夢は「いつか外国に行くこと」だった。それから,顔が濃いめで髭のある人,できれば西アジアの人,もっと言えばパレスチナの人と(幼児期に毎日のようにパレスチナ問題とベトナム戦争のニュースを見ていたからだろうか?)結婚すること。その点で言えば,夢はかなったのだろう。

高校になると,進路というものは現実的というか,世の中の世知辛さに晒されてくる。進学校であると同時に,教員養成課程のある国公立大学への進学が多かった高校で(やっと出会った)友人らが「教員になる」という目標を持って受験勉強をする中で,私には何もしたいことがなかった。本を読んで,音楽を聴いて,試験勉強とかは特にしなくてもそこそこの成績をとって卒業はできるだろう,という程度。

高校3年になっても何も目標が見つからず,卒業だけして1年家に閉じこもった。高校の教科書を自分でやり直すための勉強をして昼夜逆転生活もした。だが,まあ,主に犬や猫と話をしながら,空に向かって空気や鳥に語りかける日々だった。両親がいない昼間,学校がない日々が幸せだった。それに,学校の先生がいないところで自分のペースでできる勉強は面白かった。教科書って面白いことも書いてあるものだな,と思った。

小学校から高校までは,ずっと学校が大嫌いだった。両親が象徴するものでもあったし,強制された集団行動がとにかく苦手だった。そんな私を当然両親は毎日罵った。両親は私に姉と同じ大学(旧帝大)に行かなければいけないと言った。どだい無理な話である。無理な話なのに,ノートが取れないADHDの私が,進学校を卒業できただけでもすごいと思うような親ではなかった。

当時私が一番に決めた目標は「家を出る」ことだった。

大学はどうしても行きたいところができた。片想いしていた人がいる大学に入って後輩になりたかったから(入学後その人は私の同級生に一目惚れして婚約していたが)。

この大学は私立で,入学するのはすこぶる簡単(試験がすごく簡単)だが,卒業するのが意外と難しかった。面白い教授が多く,イングリッシュ・ジャーナルなどに取材される先生や6ヶ国語を操る先生がいて,外国人の教授が近隣の公立大学より多く,キャンパスのつくりも外国のようだった。外国人の教授や国立の教育課程から移ってきた割とクセのある教授達の研究室を訪ねて,お茶やお菓子を出してもらいつつ教授の講義,哲学や宗教,心理学や精神病理学,外国文化等々について話をするのが好きだった。

小中高と先生に嫌われていた(小学1〜2年生もちあがりの担任以外は皆私を嫌がった)ので,新鮮だった。教授達は私の話を真剣に聞いてくれた。体調が悪そうな時には心配してくれた。ヒルシュスプルング病からくる腹痛と嘔吐で苦しむ生徒を「受け持ち生徒が早退すると校長からの評価が下がるから」と早退させてくれなかった高3の担任とかとは大違いだった。

その大学でできることで尚且つ家を出るために役立つことは、資格を取得することだった。家を出るためになら,努力というものをしてみようと思ったのだ。

毒親をサバイバルするためには,物理的に精神的に離れることが必要だが,その最短距離は就職することだと思う。できれば資格があると選択肢が広がるはずだ。

だから,大学卒業と同時に正規職員として就職してからも,割と有名な大学の通信教育課程でいくつかの資格を取得した。通信教育は自分なりにできるので,私には合っていた。インターネットの発達した現代なら,海外の有名大学が公開している講座も受講できる。私の時代にインターネットがなかったのは残念である。それでも「みんな一緒」「みんな同じ」という状態を強制される苦痛がない分,通信教育課程は学習しやすかった。

世の中には,私のように他人と同じペースを強制されると身動きできなくなってしまう人間がいる反面,「みんなと一緒」でないと不安になる人がいる。同じ職場で出会った人達の中にも資格取得のために通信教育を受講する人がいたけれど,脱落するか課程終了が著しく遅れる人も多かった。

仕事に必要なある免許を取得するために,1年コースを受講したことがある。私は半年で終了したが,同じ職場の人が1年で終わらず延長手続きをしていたことで,人間関係がギクシャクしたこともあった(その人がとても繊細だったのか性格に問題があったのかわからないが,嫌がらせを受けた)。私が見ていた限りにおいて,その人も親が相当だったから,焦りや苦しさがあったのかもしれない。

親から逃げなければいけない時がある。生物学的に親は親だ。この親だから自分なのだろう遺伝子的には。だが,生き残るために親から逃げよう,そう思うことが多いのだ。

お薬のこと 

数日前に定期通院してから薬が変わった。

抑鬱状態というか,感情が動かなくなって離人現象が起きている状態がずっと続くので,ジェイゾロフトは3錠使っていたのだが(4錠だと嘔吐してしまう),これ以上増薬できる薬ではないと,主治医の先生が判断した。

それで,ジェイゾロフトを減薬して1錠にし,代わりにレクサプロ錠と言う薬を2分の1錠夜に飲むことになった。ジェイゾロフトもレクサプロもどちらもSSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)なのだが,強さが違うらしい。

5日間続けてみて,レクサプロは眠気が強く出ることがわかった。吐き気はあるがジェイゾロフトを増薬した時のような,下を向くと胃液が逆流してくるのとは違う,右側を下にして横になっていると収まってくる。私の胃は瀑状胃という変形している胃なので,右を下にしないと中身が溢れるようになるから右下が良い。

今まで,抗うつ剤のジェイゾロフトを1日3錠,精神安定剤のデパスを2錠,睡眠薬を2錠,それから吐き気留めと胃の薬を飲んでいたが,ジェイゾロフトが鬱にあまり効果が見られず,寧ろ感情が異様にたかぶる(怒りの感情や緊張感など)ので,寧ろ控えた方が良いとのこと。

ジェイゾロフトがデパスに勝ってしまうと,身体中が緊張して,1日中(眠っていても)拳を握って歯を食いしばっていることになるので,体にもよろしくないらしい。

10年以上前になるが,初めてジェイゾロフト(当時は1日1錠)を飲んだ時には,効果があったし,毎日泣いている状態が収まったのだが,現在の状態があの頃より更にひどいらしい。

2年半ぐらい前に,母の介護や姉や夫の入院,仕事の行き詰まり感,実家の被災で涙が止まらなかった時も,ジェイゾロフトを増量することでなんとかしのげた。少なくとも,動くことはできるようになった。

けれど,被災した実家を片付けるにしても,母の遠距離介護に通うのにしも,夫や姉の症状を病院と相談するにしても,窓口が私だけと言うのが,本当に辛かった。仕事は朝8時半から夜8時ぐらいまであった。持ち帰ってする仕事もあった。眠る時間はほとんどなかった。

そのうちにジェイゾロフトが効かなくなってきたのか,自分がますます鬱状態になったのか,感情が動かなくなり表情がなくなった。自分の体がどこで何をしているのか,それさえもわからないくらいに自分が自分から離れてしまった。「乖離してますね。離人症状です。」医師に言わせれば一言だが,この状態を説明しても,なったことがない相手に理解してもらうのはまず無理なのではないかと思う。

今回の,ジェイゾロフトからレクサプロへの薬の変更で,主治医からは「まず1週間様子を見て。1週間後にまた来てください。薬の変更は慎重にしなければいけないから。」とのことだった。なので今週また状態を報告しに通院する。

レクサプロで眠気がひどいので,今日も昨日も一昨日も,ずっと1日中眠ってしまった。一昨日はなんとかナナの散歩に行けたけれど,昨日も今日も「ごめんね。ごめんね。」と,ナナに謝って「お庭ドッグラン(周りを高めの柵で囲った庭)」で走ってもらった。

眠いので,昨夜寝る前のデパスを1錠減らしてみた。特に緊張が強くなることもなく,眠ることもできた。主治医からはデパスは依存性が強いのでできるだけ減らしていこう,と言われてもいたので,レクサプロで眠れるならデパスを減らすことができるかも,と言うのは良いことだろう。デパスを1日3錠使った時には,緊張はほぐれたが1日中ぼんやりして何かに集中することもできなかった。2錠に減らして,それでもまだぼんやりしていたが,緊張が酷いのでそれ以上減らせなかったのだ。

デパスを減らせたら,少し頭が動くだろうか。緊張が出ないようならこのままレクサプロで続けることになるかもしれない。

通院日

このところ調子が悪く,今週初めに予約を入れていたのに,クリニックに行けなかった。体に力が入らず,目が回っていたので,とてもではないが車の運転などできないと判断した。電話でキャンセルの連絡をすると,今週はまだ空いている時間があったそうで,そこに入れてもらうことができた。体調をよく見てからにしたかったので,少し遅めの時間にした。

今通っているクリニックは,現代人,特に大人の心の病や障害へのケアのためであろうけれど,午前中はあまり早くない時間に診療が始まって,夜割と遅くまで受診が可能である。医師の方々は1日に数人いて,週に数日出て交代というようで,先生によっては土日に診療が入っているので,仕事の休みに受診する人も多いようだ。

子どもの場合は心療内科ではなく,小児科で診てもらうか,小児科に紹介された総合病院に行くケースがほとんどだろうから,心療内科クリニックといえば,受診するのは大抵大人,あるいは高校生以上ぐらいである。

大人だけといっても,それでも受診する人は多い。私は夕方の午後診療が始まって2番目ぐらいの時間帯に予約しているのだが,私と同じぐらいの人やちょっと若いぐらいの人,学生さんかな?と思われる人,いかにも仕事をしていそうな人,等々が待合室にいる。今はコロナ感染予防のためにソーシャルディスタンスが求められているので,待合室のベンチでは皆さん一人おきに座っているが,私にはそれがとても難しい。

まず,他人が触ったものに触ることが難しい。洗ったり消毒したりすれば平気。死ぬほど我慢できないものではないが,どうにも難しい。だから子どもの頃から母に消毒用アルコールを浸ませた脱脂綿をもらっていたし,大人になってからは自分で消毒用アルコールを持ち歩くようになった。

だから公共の乗り物がものすごく苦手だ。元々普通の人以上に乗り物酔いしやすいためあまり公共の乗り物に乗らず(吐いたりしたら他の人に迷惑だし)自家用車を使っているが,どうしても乗る時には吊革に掴まれない。立ってバランスを取っている。

電車やバス,病院の待合室ではイスを除菌ティッシュでさっと拭くが,それでも怖い時は座らずに立っている。そもそも,新幹線のように窓が開かない列車や観光バスは怖くて息苦しくなってしまうので乗れない。どうしても乗らねばならない場合,たとえば夫の実家に行くときの飛行機や仕事で仕方なく公共の乗り物を使う際は,安定剤を1錠多くするなどして対応してきた。

心療内科に行っても,待合室のイスを消毒する。それができない時には立っている。

今週の通院日は,予約日と時間を変更したためなのか,たまたまその時だけだったのか,待合室がいっぱいだった。いくら一人おきにベンチに座っていても,ドアを開けて入った瞬間,マスク越しにもわかるひといきれで「うっ」と唸ってしまった。そのまま待合室の一つ隣にある受付のある部屋に戻り「ここにいてもいいですか。待合室がいっぱいなんです。」とお願いして許しをもらって待つことにした。

今回の診察で医師から「体調も精神状態もあまりよろしくないようだが,ジェイゾロフトは量を変えたばかりなので,もう少し今の薬で様子を見て,改善が見られなければ薬を変える。」という話があった。

1ヶ月前に抗うつ薬のジェイゾロフトを増やして,副反応の吐き気は体が薬に馴染むにつれて落ち着いて来たから,まだしばらく様子を見るということ。

ジェイゾロフトを増やして1ヶ月続けてみて,初めの頃は下を向いただけで吐きそうになっていたのが,ここ1週間ほどはゲップとしゃっくり程度になって来た。

ただそれは,食べていないというのも関係するかもしれない。あまりに吐き気が酷かったので,食べる気になれなかったのだ。(夫には勝手に食べてもらっている。)お茶とポカリスウェットと野菜ジュース,それから何か甘い物(だいたいは小豆の煮たの)を茶碗半分ぐらい。体重が少し減ったが激減というのではない。ちょっと服の腹回りや指輪が緩くなったぐらい。

ジェイゾロフトはSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の中では比較的効果が緩やかだそうだ。だから少量ずつ試していく初期の処方に使われることが多いという。私がこの薬を使い始めたのはもう随分前で,今通っている心療内科クリニックではない総合病院の総合診療科で処方されたのが始まり。

はじめのうちは1日1錠でなんとか調子が良くなって,だんだん2日に1錠になったのだが,職場が変わったことや(今は仕事はしていないので大分楽なのだが)母の癌手術と入院の遠距離介護,姉の自傷とミュンヒハウゼン症候群のような状態による救急搬送の繰り返し,夫の怪我と手術入院やリハビリ,実家の自然災害被災と家の消失などなど続いているうちに,1日2錠になり,更にそれでも無理ということで1日3錠になった。しかし副反応が私の感覚過敏のせいか異常に激しかったために減薬しては増やし,嘔吐を繰り返し,また減薬し,人格乖離状態になり,増薬し,嘔吐しの繰り返しになってしまった。

この次薬を変えるとしたら何になるのかわからないが,抗うつ剤の中でパキシルは既に体に合わないことがわかっているので,そこは医師と相談しなければならない。

薬の管理というのは,特に副反応や揺り戻し(精神的落ち込みがどっとくる)などの危険がある抗うつ剤では,医師と納得がいくまで話し合う必要がある。医師が受診者の言うままに大量に薬を出してくるところは,行ってはいけないと思っている。それは患者の体や生死について無責任だということではないかと考えるから。かといって絶対に正しく診断して治療してくれる医療機関というのは,少なくとも心療内科では存在しないような気もしている。

それでもなんとか生きている。

大人でもADHD

https://www.lifehacker.jp/2021/09/are-you-living-with-undiagnosed-adult-adhd.html

「大人の『隠れADHD』とは? よくある症状やその特性」という記事が出ていたので読んだのだが,「どうしてこういう表現になるのかな?」と疑問に思うところがかなりあった。それなりにADHDの特性はおさえてはいるのかもしれないのだが。

(以下引用)

ADHD(注意欠陥・多動性障害)を抱えた生活とは、いったいどのようなものなのでしょうか。ADHDについてはさまざまな誤解が存在しています。多くの人が思い浮かべるのは、じっと座っていられない男の子かもしれません。また、世間では一般的に、大きくなるにしたがって症状は自然に消えていくのだろうと考えられています。

「ところが実際には、ADHDはそんな単純な病気ではなく、大人になっても治らないケースが多々あります。その症状も、集中できない、じっとしていられないなど、実にさまざま。というわけで、子どものころからADHDの症状が出ていたにもかかわらず、正しい診断や治療を受けていない人が数多く存在しています。

「『ADHDという病名は、その実態とはかけ離れています。集中力のなさは、症状のひとつにすぎないからです。』ミネソタ大学医学部で心理学を研究するLidia Zylowska氏は、そう語っています。

「もしかすると、自分は大人のADHDかも」そのように感じている人は、なるべく早く診断を仰ぎましょう。治療を受けずにいると、公私にわたってさまざまな問題が起こるおそれがあるからです。

「また、診察を受けるときには、大人のADHDに関する専門医を選びましょう。ADHDをめぐる誤解の多くは、医療分野にも広がっているからです。

(以上引用)

引っかかったのはADHDを最後まで「病気」と表現しているところ。大人になっても治るものではない,という点をおさえているのだから,そこは「障害」という表現にしてほしかった。「病名」というのは翻訳の間違いかもしれないが。

ADHDがあると,ひらめきはあるのだが具体化するための計画を立てることが難しい。計画を立てることができたとしてもそれを実際に行うことが難しい。

時間の見積もりを立てることができず,たとえば,早く仕事に行くために早起きしても「時間に余裕ができた」と感じて何か別の作業を始めてしまい没頭してしまい,肝心の仕事に出かけることを忘れて遅刻する。1時間いつもより早く起きたら1時間余計なことをして,結局いつもと同じか遅れてしまう。そんな時に「もうちょっと早く起きろ」と言われても「早く起きているんだがなあ?」となってしまう。外出時に目的地まで十分すぎる時間的余裕を持って出たはずが,道に迷ったり横道に逸れたりして気づけば遅刻している,などということがよくある。道に迷うのは注意がそれてしまうから。

本文中の「ハイパーフォーカス」についての内容は良かったかなと思う。「ADHD=注意欠陥性多動障害」というと絶え間なく動いているように聞こえるが,上にも書いたけれど「朝早起きした→時間に余裕がある→何かできる→何か始める→夢中になって時間を忘れる→遅刻」そんなことがよくある。

変に余裕があるとその場で必要ないことを始めてそれに没頭してしまい,周りの状況や情報は一切入って来なくなってしまうのだ。

文中にもあるけれど,こういった傾向は子どもの頃からある。けれど「おっちょこちょい」「忘れっぽい」「怠け者」などレッテルを貼られてしまって適切に対応されていないことがほとんど。また勉強ができてしまうと「ふざけている」と教師や周囲の大人からの敵意の対象になってしまう。

私は数年前に検査した結果,軽度のギフテッド(先天的に、平均よりも、顕著に高い知性と共感的理解、倫理観、正義感、博愛精神を持っている人のこと。外部に対する世間的な成功を収める、収めないにかかわらず、内在的な学習の素質、生まれつきの高い学習能力や豊かな精神性を持っているということである。引用元:Wikipedia)だった。

中学時代にも同様の結果が出ていたので,放課後に生徒指導室に呼び出されてはお説教をされていた。「どうして真面目に授業を受けないのか(教科書もノートも開かないで窓の外や時計を見ている)」と毎日怒られていたのだ。

ADHDという概念がなかった時代でもあるし,あったとしても中学生の生活というのは大体部活が中心だしで,先生にはあまり期待していなかったが,テストの成績が良くても怒られるのだから,理不尽だとは思った。

だがADHDがあったためだろうが,黒板の板書をノートに書き写すことはできなかった。全て聞いて暗記するほかなかった。外を見て天井を見て時計を見て,教科書に落書きしていることで,なんとか席に着いている状態だった。そうでなければ歩き出して教室の外に出ていたと思う。さすがに「教室から出て行くのはまずい」という理性が働いていたから,自分を着席させていたのだ。

着席して授業時間内は教室にいることが,ADHDのある子どもにはとても難しい。

それでもなんとか周りの大人の顔を見て,なんとか期待されていることをしようとはする。

中学時代,私は部活動ができなかった。集団行動が苦痛でしかないから。中学では美術クラブにはいたが部活はしなかった。その代わり,放課後や昼休みはいつも図書室に行った。卒業までに図書室のほぼ全ての本を(斜め読みを含めて)読んだ。

高校では文芸部に入った。この部活は卒業まで続いた。なぜかというと集団行動ではなく個人でできることだから。原稿を書くことも校正することも一人でできるから。ちなみにこの高校の文芸部は,日本全国対象の文芸コンクールでは評価が高い。なのに部員全員が妙に自由だった。

集団で,皆が同じ時間と場所に縛られている状態が苦しかった。授業だけでも苦しいのだから放課後までそれは勘弁してほしいと思っていたから,文芸部の存在は新鮮だった。しかも本を読んで分析したことを文章にしても誰にも怒られないのだ。中学のように「そんな難しい言葉を使うな」と怒る先生もいないのだ。

私は,「ADHDがあると,そういうこともあるよね。」という幾つかのパターンを周りに知ってもらいたいとは思う。「それを知っているだけで,あなたはイライラしなくて済むんですよ。」とも言いたい時がある。ADHDのある人間と一緒に仕事したり生活したりする場合,きっとイライラすることがあるだろうから。周りの人がイライラしていると,きっとADHDの有無に関わらず誰でも萎縮して動けなくなってしまうから。お互いにあまり良い結果につながらないと思う。

私は通学のために列車に乗っているだけで,毎日疲れ切っていた。周りの情報が多すぎること,音声が周囲360度から入ってきてしまうこと,などなど。特に周りの人の会話が辛かった。ウォークマンがこの世に出た時にはとても嬉しかった。

決められた時間内に動くことに関しては,ちょっと声をかけてもらえればかなり対処できる。周りの音や声で注意が散漫になりそうな時は,ヘッドフォンをすると動きやすいのでそういう補助具を使うことを許してもらえるとありがたい。

ADHDがあってもなくても,自分以外の誰かのことを理解しようとすることとか,その人に必要な支援(背が低い人の代わりに背の高い人が荷物を棚に乗せるように)があると助かる。

そしてADHDは病気ではないので,一生治らない。でも,本人の理性と理解や周りの理解があればなんとかやっていけると思う。

自立支援(精神科)のための医療費助成制度

昨日,自立支援受給証の更新手続きに行った。正式名称は「自立支援 医療費自己負担額上限管理票」という。

これがあるおかげで月に2〜3回の心療内科への通院や,必要に応じた検査を受けることができている。なかったら,生活への負担が大き過ぎてとてもではないが通院できない。もし自立支援がなかったら,診察料や処方料や投薬料で1回につき6〜7千円かかってしまう。特に検査費用は高額なので,検査まで行ったら1度に1万円は軽く超えてしまうのでとても助かる。

30年以上頑張って働いて,独身時代が長かったし結婚しても子どもを亡くしてしまったので,税金も年金も健康保険も普通の人達より倍ぐらい払ってきたことを言い訳にして(扶養家族がいないと税金や年金や健康保険は扶養家族がいる人の2倍かそれ以上ぐらいになる)「ごめんなさい」と思いつつ社会福祉のお世話になることにした。

この支援制度を使うと,医療費負担が一般的な3割ではなく1割になる。その1割負担で支払っていって1ヶ月の合計が1万円までが支援対象になる(今年度から改訂。以前は2万円だった)。1万円を超えると3割負担になる。支援の上限は収入や職業の有無などによって変わってくるらしい(関係ないことは詳しくは聞けない)。私は職場に籍だけは残っている,休職という形である。

私の場合の支援受給対象の疾患は「うつ病」「適応障害」になっている。食事ができない,動けない,外に出られない,眠れない,などなどの症状がある。症状は人さまざまだろうが,心の病気や発達障害は外から見てもわからないので,なかなか苦しさがわかってもらえない面はある。

外に出られないという症状ならばわかるだろうが,眠れないとか食べられないとか家の中では這いずって移動しているとかは,家族でないとわからない。仕事をしていた時は職場でだけ(昼だけ)他の人と同じものを食べていたが,昼休みに嘔吐して食べ物にされた動物や植物に申し訳なくなることもあった。

「自立支援医療費自己負担額上限管理(自立支援と略したい長いから)」の対象となるのは市町村によって基準が変わることもあるが,ほとんどのところで「うつ病」「てんかん」「統合失調症」「双極性障害(躁鬱病と呼ばれている)」は認められている。それ以外も「などなど」のくくりで認められることがある。

私がこの自立支援制度を使い始めたのは2年前で,本来は1年ごとに更新手続きが必要なのだが,昨年はコロナウィルス感染拡大予防のために公的機関でも間引き業務(というのか?)が行われていて,自動的に更新されることになったのだ。なので今年が初めての更新になる。来年からどうなるかは,まだコロナが蔓延しているのでわからない。

自立支援の申請に必要だったのは,まず市の書式の診断書を医師に書いてもらってから,市の書式の申請書と(課税納税状況を調べていいですかという)同意書,自分の印鑑と健康保険証とマイナンバーのわかるもの(申請書にマイナンバーを書くところがあるから)。

クリニックに通い始めた頃はまだ仕事をしていたので気にならなかったが,収入がなくなれば通院はできないのだ,ということにかなり後になってから気がついた。通院始めの頃は,夫が大怪我をして手術入院したり母が末期癌で入院したりで支出も多かったので自分のことは後回しにしていた。当時は支出に関係なかったが,姉に自傷の傾向があり何度も救急搬送されていたので精神的にいっぱいいっぱいだった。そして極め付けは台風が実家を洪水で流して壊した。

頭も体もいっぱいいっぱいの時,医師から「仕事を続けていると自分の命がもっともっと削れますよ」と言われ,クリニックの受付の方から自立支援制度の案内プリントをもらって「休んでいいのかな。」と思いはじめた。それでもその後もしばらくは仕事を続けていたのだが,ついに自分がどこで何をしているのかわからなくなった。

私にはADHDがあるので,物事の順番づけが難しい。まず社会的な仕事は最初にやらなくちゃとは思う。次に何をどんな順番でするかがわからない。仕事,親の病気,姉の心の病気,夫の怪我,全員が入院していること,台風で被災して壊れた実家をどうにかしないと・・・と考えていたら頭が動くのを拒否した。

自分が壊れる前に自分が自分を助けてやらなくてはいけないと,今なら思う。家族が皆倒れて家も倒れて,それでも私は誰にも「疲れた」ということができなかった。仕事ではいつも笑顔で元気いっぱいなふりをしていた。

自分が助けないといけない,誰も自分を助けられないのだ,と思う。だから,自立支援制度を使ってでもなんでも自分に必要なケアをしなければいけない時があるとも思う。そうでなければ,たとえば,車を運転していていきなり手を離して遠くを見てしまうかもしれない,電車が入ってくる時にホームから足を踏み出してしまうかもしれない。誰にでも他人に察してもらうことを待つより,自分が動けるうちに自分を助けて欲しいと思うのだ。

低気圧時の体調不良 ADHD・ASDの私の対策 

今日は曇っていて湿度が高くジメジメしている。だが,いつもの低気圧の日のような体調不良はあまり出ていない。ゆっくり眠れたからかもしれない。いや低気圧がまだそんなにひどくないのかな?

ゆっくり眠ることは体調不良にはとても効果がある。それは誰でも知っていることだと思うけれど,なかなか眠れないのが現代社会の構造なのだろう。

家にずっといる生活になって,1年近くは眠ることができなかった。薬も飲んだけれど,落ち着いてベッドにいることができない性格なので,薬を飲んでから動き始めてしまうこともあり,動いている間にちょうど「眠りに入る」薬の効果が出ている時に興奮状態で眠れないまま朝,ということがたびたびあった。

ADHDがある場合「落ち着いて」「じっとして」というのは本当に大変。いつもワチャワチャ動き出してしまう。体全体が動かなくても目がキョロキョロしたり手が動いたり体を揺らしたり。

なので,睡眠薬だけでなく精神安定剤(私の場合はデパス)を使う必要がある。それに,子どもの頃から眠っている時に全身が緊張して朝になったら余計に強張っている,ということが続いているので,緊張をほぐすためにも安定剤が必要。

かかりつけのクリニックでは,デパスには依存性があるから減らすように,少なくとも増やさないように,と注意を受けている。睡眠薬を使うようになってから安定剤が増えることはないが,それ以前は「眠りを持続するため」という目的にまで安定剤を使っていたので量が増えてしまい,クリニックで「気をつけて行きましょう」と言われた。それで,眠る前に動き出さないようにするための精神安定剤,眠りを持続するための睡眠薬,という処方になった。

眠れたから今日はさほどではないと言っても,低気圧は体調を崩しやすい。

以前読んだ漢方の本や製薬会社のホームページなどには,低気圧で体に水が溜まる,という記述もあったけれど(製薬会社が漢方も出しているところだったせいか?),漢方はよく「水が溜まる」と言う。

水が溜まるかどうか知らないが,体内の圧力というのはいつもあるわけで,体の外の気圧がその体内圧より下がってしまったら,圧力が低い方に引っ張られるようにして体内の水分や血管のような柔らかい器官が膨れるだろうから,体がむくんだり,血管拡張から頭痛が起こったりする(片頭痛は血管拡張が原因と神経内科の医師に言われたことがある)と思う。体がむくむと力もなかなか入らないし気持ちが悪い。血管が拡張したら頭痛以外の問題も起こるだろう。

大抵の人は「仕事だから」「学校があるから」「部活動だから」と何かしら「〜だから」を根性の土台にして,薬を飲んだり,清涼飲料水などでリフレッシュしたり,頑張っている自分を心で褒めて脳内ドーピングしたりして我慢している。

でも,障害があると頑張りたくても頑張れない理由がある。

一つはすでにたくさん薬を飲んでいること。鎮痛剤との相性が悪い場合は普段から飲んでいる薬を優先することになる。抗うつ剤,精神安定剤,てんかんの薬,等々グレープフルーツを筆頭に柑橘系と組み合わることが厳禁の薬もある。上でも述べたけれども,睡眠が普通にとれないケースもあり(1日中起きているような状態とか),体力的に持たないこともある。

一つは過敏。障害のない人より感覚に過敏がある場合,痛みでもだるさでも倍以上の重さでのしかかってくるようだ。

発達障害のある子どもさんと関わることが多かったが,低気圧が近づくと異様にハイになって走り出し飛び上がり最後に疲れて倒れ込む,泣き出す不機嫌になる,体温が安定しない,呼吸が乱れる,などなどのケースがあった。みんな頑張っているのだが,感覚や神経の過敏さは容赦なく体を中から責め立ててくる。

「頑張れ」「根性がない」と簡単に言うのは,無知のなせる暴力だと思う。同じ天気の下にいても,体や神経の作りが違うのだ。ガラスと鉛は同じ強度ではない。

私は「頑張れ」と言う言葉が子どもの頃から大嫌いだった。どう頑張ればいいのか具体的に言ってくれればまだ良いのだが,漠然としていて方向性も何もなく無責任な言葉だ。ASDの人間には具体的に何をどうするか伝えてくれた方が良い。ADHDの子は一般的な「頑張り」を見せることが難しい。それ以前の行動がコントロールできていないのだから。

なので,低気圧の日に具合が悪い人間に対して「頑張れ」とか「根性」とか,あまり言わないで欲しい。具体的に解決策を示して欲しい。だがそれはその場では無理かもしれないが。

解決策の例1:温かい風呂に入る。自律神経を調整してリラックス効果と体内外の圧の調整ができる。足湯や手湯も良い。

解決策の例2:温かいものを食べる。これも体を温めて自律神経を調整する。(片頭痛にはコーヒーか紅茶を飲みなさい,と神経内科の先生に言われた。それは血管の拡張を抑えるため)

解決策の例3:マッサージ  耳たぶマッサージが効くと知られているけれど,むくみは足や腕が辛いからリンパに沿ってマッサージするといい。

解決策の例4:少し横になる。足を少し高くすると体内の水分の流れが良くなる。

解決策の例5:エアコンで室内の気圧を調整する。

解決策の例6:昼寝。デスクについていてもいい。子どもだったら,床にウレタンマットでも敷いて休み時間にゴロゴロさせてみてはどうか。

時代が変われば全てが変わるもので,数年前までは「運動中に水分なんかとるな」と言われていたし猛暑の中でもランニングとかあったものだが,今ではそれは狂気の沙汰である。

だから時代がかわったのだから,せめて職場に長椅子のある休憩室とかあると良いと思う。それが無理なら絨毯やラグを敷いた部屋を作って休憩時間にゴロゴロできるようにすると良いのではないだろうか。あとデスクについていてもいいから昼寝。もう自分には関係ないんだろうけれど,しんどい中で「頑張って」心身を痛めつけている人達がいるんだろうと考えてしまうのだ。

そんなことをしみじみ考えた体調がまあまあマシな低気圧の日(今日の天気は低気圧自体がそんなにひどくないのだと思うけど)。

火にかけた鍋を今日も忘れた

この時間となっては昨日のことなのだが,いつものことというか,火にかけた鍋の存在が「去る者は日々に疎し」になってしまった。

鍋は10人分のトルココーヒーを淹れるためのもので1リットルぐらいの水が入る(色々な大きさのコーヒー鍋がある)。それが半分ほどまで蒸発してしまった。大変な失敗だった。ここしばらく同じ失敗をしていなかったから油断してしまった。

自分がADHDがあることは知っているし身に染みてもいるので,普段なら「ガス点火」「鍋位置よし」「5分後には確認(目の前にデジタル時計)」と指差し確認をするのに。

別に,トルココーヒーを淹れようとしたわけではない。お湯を沸かそうとしただけ。うちにはヤカンがないのだ。白湯を準備したりお茶やコーヒーを淹れる時は,いつもトルココーヒー鍋かミルク鍋で沸かす。

やはり火を使っている時には,ガス台の前にイスを持って行って座って待った方が良さそうだ。次からはそうしてみよう。お湯が沸くまでの間はニャンコか柴ワンコをもふもふしていよう。

そして,「指差し確認」は有効だな,と改めて感じた。

友達があまりいなくても幸せかもしれない

「1年生になったら」という有名な童謡があって,歌詞の中に「友達100人できるかな」というのがある。

100人も友達がいる人って信用できるかなあ?

今日は「友達100人できるかなの呪縛を解こう。友達は量より質が大切」という記事を読んだ。

https://suits-woman.jp/column/himote/220031/

昔の同僚に「恩師」と「親友」が何十人もいるような人がいた。「親友の結婚」「〇〇先生は私の恩師なんです」という話を何十回も聞いた。

その人に対する私の感想は「正気か?」「上っ面だけの付き合いが好きなのかな?」だった。

私には心置き無く話せる友人が数人いる。結婚披露宴を兼ねた食事会にもその数人に来てもらった。丸いテーブル一席で足りる人数。親友というか,隠し事なく何でも話せて共感できる友人が一人いる。その友人は外国人で外国に住んでいるので披露宴には来ていない。やはり外国人だが結婚の証人になってくれた友人が一人。

「恩師」は3人かな?  

一人は小学校の1〜2年生の持ち上がり担任の先生。授業中に一人で喋り出したり立ち上がったり,そうかと思えば発表で指名されると真っ赤になって遠くを見ていたり,他の子達と全然会話が噛み合わなかったり一緒に遊べなかったりした私を根気よく見てくれた。「指導」はちょっと無理な状態だったので「見守り」だったと思う。小学校3年生以降中学卒業までは学校の先生に邪魔者扱いされてきたのから,あの先生は「恩師」だと思う。

高校は県内では割と知られた進学校だったので,先生達は生徒のことにはあまり構わず休んでも気づかないくらいだった。

大学で出会った「恩師」が2人。一人は芸術科目の教授で,もう一人はアメリカ人の教授だった。芸術の教授には「お前さんはそのままでいいよ。それが個性だよ。」と言ってもらった。アメリカ人の教授には英語で聖書を読む講義を受けた。その教授も「あなたはいろいろなことができるんですよ。素晴らしい個性があるんです。」と言ってくれた。大学生になって生まれて初めて先生に褒められた感じがした。

友人達に出会ったのも高校や大学や社会人になってから。

確かに小学校や中学校の同級生も「ともだち」なのかもしれないけれど,どうしても間に見えない壁があって近づけない。彼らのせいではなくて,それは私が発達障害を持っていたからなのだ。それはよくわかっている。

でも,発達障害がなくても友達があまりいない人はいるし,「友達100人できないと人間としてダメなのか?」なんて思わなければいけないとしたらあんまりだ。

自分が小中学生の頃,本を読みたくて図書室に行きたいのに「休み時間には友達と外で遊びなさい。」と強制的に校庭に出そうとする教員がいた。自分が教員になってからも同じような教員方に会ってきた。「休み時間に一人でいる子は問題児だ」と言う人たち。でもその一人ぼっちでいた子が,例えば「作文」「絵画」「読書感想文」等々の一人で仕上げなければいけないもので賞を取ったりしたら,態度を変える。

そういうのが苦手だった。

自分にとっては,これからも友達は「量より質」というか「量より性質」で,一緒にいても苦しくない人なんだと思う。

それに動物がいる。動物,それから植物や空気や空や川やなんだかんだ自然に話しかけている時はとてもリラックスできるのだ。

カサンドラ症候群にならないために頑張る②

このタイトルが出てきたのは,姉から電話があったからである。

姉が言うには「外出から戻ったら家の鍵が開かない。どうすれば開くのか?」

普通は鍵で開けるものである。

「鍵をさして回す」と答えたら「それはやった。それでも開かない。もう10分もやっているのに開かない。」

それを私にどうしろと言うのか?   

何時間もかけて姉のいる所まで出向いてドアの鍵を開けろと言うのか。

「いいか,心を無にしろ。」と私は言った。「そして一度鍵を抜いて,ゆっくり挿してゆっくり回す。慌てるな。」

「そんな精神論を聞いているんじゃない。」と姉は半泣きであった。

「いや,精神論じゃなくて,慌てるなと言うことだ。慌ててガチャガチャ乱暴にしたら鍵穴の中が傷ついて本当に開かなくなるかもしれない。」と私。

「もう中が傷ついてるんだ。どうして傷つくの。もう開かなくなったんだ。」と姉。

「いやだから開かないとは言っていない。でもそれ以上傷つけたらダメでしょう。」と私。

「深呼吸して心を沈めて,絶対にガチャガチャしないでゆっくり鍵を回そう。じゃあ。」と言って返事を待たずにこちらから電話を切った。

30分ほどしてから「どうだ?」とLINEを送ったところ「開いた」と返信があった。

子どもの頃から,姉とのやりとりはこんな感じ。話が通じている気がしない。相手にすると自分が辛くなる。しかし子どもの頃から最強にお勉強ができた姉なので,いくら私が姉との関係で苦労すると言っても誰にも通じない。

適当なところで切り上げるしかないのかもしれない。

カサンドラ症候群にならないために頑張る①

カサンドラ症候群というのは,正しくは「カサンドラ情動剥奪障害」というらしい。

身内(特に配偶者)に発達障害(主に自閉スペクトル,アスペルガー症候群と言われていたもの)がある場合,相手を傷つけないように気をつけたり,相手の伝えたいことを先読みしたりして自分の感情がおざなりになってしまう。

そこまでやっても相手はこちらの話は聞いていないしコミュニケーションが取れない。つまり,相手は相手自身のことしか興味関心はないので,相互のやりとりではなく一方的に相手の要望だけが通ってしまうことでコミュニケーションが成立しない。

アスペルガー症候群の人というのは大学教授だったり学校の先生だったり公務員だったりと,何となく「良さげ」な仕事についていることが多く外面は悪くないので,身内としてその人と関わることがどれだけ大変で苦しいことかを訴えようとしても,「そんなはずはない」「気のせい」など,訴えた側が信用してもらえない状態になる。

自分が言っていることが誰にも信用されないので深く悩み傷つき自己肯定感が低くなる。自分のことも信じられなくなる。心身ともに病み始めて,疲労感の蓄積とか頭痛とか食欲不振とかパニック症状などが起こる(症状はさまざま)。

この「いくら訴えても信用してもらえない状態」を,ギリシア神話のトロイ戦争編に出てきたカサンドラという女性預言者の伝説になぞらえて「カサンドラ情動剥奪障害」というそうだ。

カサンドラはトロイの王女で,ギリシアから「パリスの審判」によって決めた「世界一美人」のヘレンを略奪して結婚したパリスの姉妹でアポロンから授かった予言の能力があったが,アポロンの求愛を断ったために「誰もカサンドラの予言は信じない」という呪いをかけられてしまった,と述べられている。

自閉スペクトルは女性より男性の方が割合がとても高いので,そのパートナーである女性がカサンドラ情動剥奪障害になることが多いという。

「信じてもらえない予言」という意味で言えば,パートナーに限らず家族全員が関係することだってあるはずなのだが。

私の身内には自閉スペクトルを有する者が多い。夫にも発達障害はあると私は踏んでいる。

夫は母国語の他に英語と日本語とイタリア語を話す。耳で聞いた言葉を記憶し再現する能力が高いが,彼はアイディアが閃くと突然180度方向転換し,それ以前に進んでいた何かしらの仕事というか目的を忘れて突っ走ってしまう。人を疑うことができず,文字や言葉をそのままに受け取ってよく騙される。反対に間違って疑いが生じると相手への誤解を解くのが難しい。一度誤った状態で入力されたデータを修正することができない。しかし非常に優しい人で,物腰も柔らかく,誰も彼がトンチンカンなことを始めるとは思わない。それをカバーするために私がどれだけ苦労するか誰も信じない。

しかしそれ以上に,両親と姉が酷かった。全員教職。父は校長で定年退職した。姉は旧帝大から博士号を取得しており,数カ国語で新聞や論文を読み自分でも数カ国後で論文を書く。父は古文書をそのままの文字で読める人だった。母は料理や編み物など一度見たり触れたりしたものをそっくりに再現できる人だった(編み物や裁縫では型紙も計算も必要としなかった)。両親ともに古文書の他に梵語も読めた。

両親は自分の思い通りにならないことや想定外のことが起こると癇癪を起こした。姉は何かに夢中になると寝食を忘れトイレに行くことも忘れる。そんな彼らとどうやってコミュニケーションを取れるというのか。だが社会的立場があるので,私が彼らのことをああだこうだ言っても誰も信じない。身内を謙遜していると思われるのが関の山である。

夫は,何となく慣れてきた。そして彼に合わせることをやめた。しつこく「〇〇は何を意味しているの?」「それはなぜ?」「どうしてそういうことを言うの?」「何を伝えたいの?」と聞くようにした。なかなか難しい。相変わらず彼からは「別に」で終わりそうになるので「それで終わりにするな。」と半強制的に聞き出すようになった。コミュニケーションなのか尋問なのか,と言う状態ではあるが話はできるようになった。ちなみに英語と日本語とアラビア語が混じった会話になる。

カサンドラ症候群にならないように,自分にできることからするしかないなと思う。