親をサバイバル①

亡くなった両親と紅玉りんごと夫のことを考えていたら,まるで自分と両親が良い家族関係だったかのような錯覚をしてしまう。

私の両親は,外面は非常に良かったが実は毒親だった。私はなんとか逃げ出したが,姉は両親のために心を蝕まれてしまった。そのおかげで,今姉との関係を適切に保つのが難しい。

父親も母親も,今でいうところのモラハラ人間で,子どもというのは自分がかつて望んでも得られなかった賞賛や見栄を満足させるための道具あり,親の手駒であると無意識にであっただろうが信じ込んでいた。子どもが自分達の思い通りにならないと,罵声での人格否定から張り手やゲンコツがとんできた。母親には包丁を持って「(自分の思い通りにならないなら)死んでしまえ」と追いかけられた。また父親は自分の実の母親である私の祖母を,私の母親とともに虐待していた。

夕食の場面は毎日戦場だった。父親が祖母を面罵し時にはこづいたり殴ったり,母親はそれを見ながらもしれっとしていた。姉は怒鳴り合いの食卓がいづらくなると部屋に閉じこもってしまい,私が一人で両親に対して祖母を庇って,それが気に食わない父親に怒声を浴びせられて場合によっては殴られた。祖母を庇うということが,私の父親にとっては自分に逆らうこと,自分を否定し侮辱することと受け止められたのかもしれない。

父親は母親の手前「妻を第一にする夫」を演じたかったのだろうか?それもあるだろうが,おそらく「家族の中に一人犠牲を作ること」が父親にとっての家族支配のルールの一つだったのだろう。私もまた,祖母を庇いつつも「自分が精神的肉体的に痛めつけられない方法」を探り,目の前の現実から逃避することもあった。祖母にきつい物言いをしてしまうとか,結果的に両親の狙う方向に行ってしまうとか。

幼児期から毎日が両親との戦いだった。休日に両親が家にいるのが嫌でたまらなかった。

そもそも私の日常生活の世話をしてくれていたのは祖母であって,両親ではなかった。持病のヒルシュスプルング病で度々起こる腸閉塞に苦しむ時,私を背負って病院まで走ってくれたのは祖母だった。母親は私や姉の健康状態に無関心だった。父親は「具合が悪い」などと言おうものなら「ふざけるな」「忙しいんだ」「お前が悪い」と怒り出した。祖母がいなかったら,私は幼児期に命を落としていたと思う。もし親から逃げ出していなかったら,やっぱり私は今こうして生きていなかったと思う。子供の頃から繰り返し自傷していたから。

幼児期は,私は風呂に入る時も祖母に任せられていた。昔の風呂は釜で湯を沸かすので,風呂が深いし周りの釜は熱されると大変熱くなり触れると火傷をするほどだった。小学校に上がる前までの家は茅葺の日本家屋で馬屋まであって,だが風呂は家の外にあった。祖母が何かしらの作業で手を離せない時には一人で夜屋外に出るのが億劫で,祖母が農繁期で近所の手伝いで忙しい時などは私は垢まみれになっていた。母親はそんな私を見て「汚いから(臭いから)近づかないで」と言うこともあった。時には濡れた布で顔をゴシゴシ拭かれることもあった。

それとは別の選択で,姉は自傷の一つで「風呂に入らない」という選択をすることがあった。そのためだろうか,今の姉は強迫的に風呂に入りたがり,体調がすぐれないのに無理をして風呂場で倒れることもあり,それが非常に問題である。

子ども時代の私の夢は「いつか外国に行くこと」だった。それから,顔が濃いめで髭のある人,できれば西アジアの人,もっと言えばパレスチナの人と(幼児期に毎日のようにパレスチナ問題とベトナム戦争のニュースを見ていたからだろうか?)結婚すること。その点で言えば,夢はかなったのだろう。

高校になると,進路というものは現実的というか,世の中の世知辛さに晒されてくる。進学校であると同時に,教員養成課程のある国公立大学への進学が多かった高校で(やっと出会った)友人らが「教員になる」という目標を持って受験勉強をする中で,私には何もしたいことがなかった。本を読んで,音楽を聴いて,試験勉強とかは特にしなくてもそこそこの成績をとって卒業はできるだろう,という程度。

高校3年になっても何も目標が見つからず,卒業だけして1年家に閉じこもった。高校の教科書を自分でやり直すための勉強をして昼夜逆転生活もした。だが,まあ,主に犬や猫と話をしながら,空に向かって空気や鳥に語りかける日々だった。両親がいない昼間,学校がない日々が幸せだった。それに,学校の先生がいないところで自分のペースでできる勉強は面白かった。教科書って面白いことも書いてあるものだな,と思った。

小学校から高校までは,ずっと学校が大嫌いだった。両親が象徴するものでもあったし,強制された集団行動がとにかく苦手だった。そんな私を当然両親は毎日罵った。両親は私に姉と同じ大学(旧帝大)に行かなければいけないと言った。どだい無理な話である。無理な話なのに,ノートが取れないADHDの私が,進学校を卒業できただけでもすごいと思うような親ではなかった。

当時私が一番に決めた目標は「家を出る」ことだった。

大学はどうしても行きたいところができた。片想いしていた人がいる大学に入って後輩になりたかったから(入学後その人は私の同級生に一目惚れして婚約していたが)。

この大学は私立で,入学するのはすこぶる簡単(試験がすごく簡単)だが,卒業するのが意外と難しかった。面白い教授が多く,イングリッシュ・ジャーナルなどに取材される先生や6ヶ国語を操る先生がいて,外国人の教授が近隣の公立大学より多く,キャンパスのつくりも外国のようだった。外国人の教授や国立の教育課程から移ってきた割とクセのある教授達の研究室を訪ねて,お茶やお菓子を出してもらいつつ教授の講義,哲学や宗教,心理学や精神病理学,外国文化等々について話をするのが好きだった。

小中高と先生に嫌われていた(小学1〜2年生もちあがりの担任以外は皆私を嫌がった)ので,新鮮だった。教授達は私の話を真剣に聞いてくれた。体調が悪そうな時には心配してくれた。ヒルシュスプルング病からくる腹痛と嘔吐で苦しむ生徒を「受け持ち生徒が早退すると校長からの評価が下がるから」と早退させてくれなかった高3の担任とかとは大違いだった。

その大学でできることで尚且つ家を出るために役立つことは、資格を取得することだった。家を出るためになら,努力というものをしてみようと思ったのだ。

毒親をサバイバルするためには,物理的に精神的に離れることが必要だが,その最短距離は就職することだと思う。できれば資格があると選択肢が広がるはずだ。

だから,大学卒業と同時に正規職員として就職してからも,割と有名な大学の通信教育課程でいくつかの資格を取得した。通信教育は自分なりにできるので,私には合っていた。インターネットの発達した現代なら,海外の有名大学が公開している講座も受講できる。私の時代にインターネットがなかったのは残念である。それでも「みんな一緒」「みんな同じ」という状態を強制される苦痛がない分,通信教育課程は学習しやすかった。

世の中には,私のように他人と同じペースを強制されると身動きできなくなってしまう人間がいる反面,「みんなと一緒」でないと不安になる人がいる。同じ職場で出会った人達の中にも資格取得のために通信教育を受講する人がいたけれど,脱落するか課程終了が著しく遅れる人も多かった。

仕事に必要なある免許を取得するために,1年コースを受講したことがある。私は半年で終了したが,同じ職場の人が1年で終わらず延長手続きをしていたことで,人間関係がギクシャクしたこともあった(その人がとても繊細だったのか性格に問題があったのかわからないが,嫌がらせを受けた)。私が見ていた限りにおいて,その人も親が相当だったから,焦りや苦しさがあったのかもしれない。

親から逃げなければいけない時がある。生物学的に親は親だ。この親だから自分なのだろう遺伝子的には。だが,生き残るために親から逃げよう,そう思うことが多いのだ。

お薬のこと 

数日前に定期通院してから薬が変わった。

抑鬱状態というか,感情が動かなくなって離人現象が起きている状態がずっと続くので,ジェイゾロフトは3錠使っていたのだが(4錠だと嘔吐してしまう),これ以上増薬できる薬ではないと,主治医の先生が判断した。

それで,ジェイゾロフトを減薬して1錠にし,代わりにレクサプロ錠と言う薬を2分の1錠夜に飲むことになった。ジェイゾロフトもレクサプロもどちらもSSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)なのだが,強さが違うらしい。

5日間続けてみて,レクサプロは眠気が強く出ることがわかった。吐き気はあるがジェイゾロフトを増薬した時のような,下を向くと胃液が逆流してくるのとは違う,右側を下にして横になっていると収まってくる。私の胃は瀑状胃という変形している胃なので,右を下にしないと中身が溢れるようになるから右下が良い。

今まで,抗うつ剤のジェイゾロフトを1日3錠,精神安定剤のデパスを2錠,睡眠薬を2錠,それから吐き気留めと胃の薬を飲んでいたが,ジェイゾロフトが鬱にあまり効果が見られず,寧ろ感情が異様にたかぶる(怒りの感情や緊張感など)ので,寧ろ控えた方が良いとのこと。

ジェイゾロフトがデパスに勝ってしまうと,身体中が緊張して,1日中(眠っていても)拳を握って歯を食いしばっていることになるので,体にもよろしくないらしい。

10年以上前になるが,初めてジェイゾロフト(当時は1日1錠)を飲んだ時には,効果があったし,毎日泣いている状態が収まったのだが,現在の状態があの頃より更にひどいらしい。

2年半ぐらい前に,母の介護や姉や夫の入院,仕事の行き詰まり感,実家の被災で涙が止まらなかった時も,ジェイゾロフトを増量することでなんとかしのげた。少なくとも,動くことはできるようになった。

けれど,被災した実家を片付けるにしても,母の遠距離介護に通うのにしも,夫や姉の症状を病院と相談するにしても,窓口が私だけと言うのが,本当に辛かった。仕事は朝8時半から夜8時ぐらいまであった。持ち帰ってする仕事もあった。眠る時間はほとんどなかった。

そのうちにジェイゾロフトが効かなくなってきたのか,自分がますます鬱状態になったのか,感情が動かなくなり表情がなくなった。自分の体がどこで何をしているのか,それさえもわからないくらいに自分が自分から離れてしまった。「乖離してますね。離人症状です。」医師に言わせれば一言だが,この状態を説明しても,なったことがない相手に理解してもらうのはまず無理なのではないかと思う。

今回の,ジェイゾロフトからレクサプロへの薬の変更で,主治医からは「まず1週間様子を見て。1週間後にまた来てください。薬の変更は慎重にしなければいけないから。」とのことだった。なので今週また状態を報告しに通院する。

レクサプロで眠気がひどいので,今日も昨日も一昨日も,ずっと1日中眠ってしまった。一昨日はなんとかナナの散歩に行けたけれど,昨日も今日も「ごめんね。ごめんね。」と,ナナに謝って「お庭ドッグラン(周りを高めの柵で囲った庭)」で走ってもらった。

眠いので,昨夜寝る前のデパスを1錠減らしてみた。特に緊張が強くなることもなく,眠ることもできた。主治医からはデパスは依存性が強いのでできるだけ減らしていこう,と言われてもいたので,レクサプロで眠れるならデパスを減らすことができるかも,と言うのは良いことだろう。デパスを1日3錠使った時には,緊張はほぐれたが1日中ぼんやりして何かに集中することもできなかった。2錠に減らして,それでもまだぼんやりしていたが,緊張が酷いのでそれ以上減らせなかったのだ。

デパスを減らせたら,少し頭が動くだろうか。緊張が出ないようならこのままレクサプロで続けることになるかもしれない。

BTSは良いですねと改めて思ったという話

Global Citizen Liveのチャンネルをチェックしていたら,ColdplayだけでなくBTSの動画もアップされていた。

改めて「良いなあ」と思った。ただし,私には背景のソウル市内の映像がグリーンスクリーンに見えてしまう,という問題があるのだが。それは私がASDを持っているからかもしれない。ドラマや映画を見ていても「ここから先はグリーンスクリーンだ。」と思いながら見ている。それはいつものことだ。だから私はマーベルの映画を見られない。見ても変な感じがする。全面にグリーンスクリーンが張り巡らされているように見えるから。

それは置いておく。

私は小学校に入学する前はクラシックばかり聞いていて,特にバロック音楽が好きでバッハやヴィヴァルディがお気に入りだった。モーツァルトやベートーヴェンも聞いたが,実はベートーヴェンはあまり好きではなかった。ヘンデルは好きだったかもしれない。両親がクラシック音楽が好きで家にレコードがあったから。

幼児期にクラシック以外で聞いていたのは,モンキーズをほぼ毎日(テレビ番組があったから),ビートルズを時々(父のラジオから流れてきたのでビートルズ以外もあった)。小学校に上がってすぐに,シカゴの「長い夜」を聞いてすごく気に入った(母の末弟がバンドが好きだった)。

毎日毎日洋楽とクラシックばかり聞いている私を心配したのか,当時父の弟がまだ大学生で教員養成課程にいたのだが,ある日童謡のレコードを買ってきた。ありがたく頂戴したし,ほのぼの聞いたり眺めたりもしていたのだが,やはり洋楽とクラシックが好きだった(滝廉太郎も好きだった)。

小学生になってからはパートリッジ・ファミリー,ジャクソン5(マイケル・ジャクソンがいた)や日本のフィンガー5(ジャクソン5やモンキーズ,パートリッジファミリー等のカバーをしていた),ニール・ヤング,フォーカス(オランダのプログレッシヴロックバンド),ジェフ・ベック,ディープパープル,レッドツェッペリン,ザ・フー,パティ・スミス,クイーン,ジェスロ・タル(マニア向けのブリティッシュロックの大御所)などを聞いていた。特にプログレは大好きだった。

当然だが,学校で話が合う子どもは全くいなかった。一人でいるのに慣れていたので,同じ趣味の子が周りにいなくても,特に困りはしなかった。

そのまま大きくなって,クラシックと洋楽だけでなく各国の民族音楽も聴くようになり,馬頭琴(モンゴルの伝統楽器)やダブキ(アラブの太鼓)など,気に入ればなんでも聞くようになった。

「何でも」の中には日本の歌も入ってきた。というか,大人になるまで日本の歌はあまり(フィンガー5以外)聞かなかった。仕事柄若い子らと話す機会が多かったので,ヴィジュアル系やジャニーズ系も聞くようになったのだ。

また仕事柄外国人と話す機会も多かったのだが,私の雑多な音楽の趣味は,外国人の同僚からは絶賛された。ジェスロ・タルやウォーターボーイズを知っている日本人がほとんどいなかったから(ジェスロ・タルは欧米では大人気なのだが)。

その私が,最近K POPにはまっているのが,本当に不思議だ。

ここ数年,抑鬱状態が続き動くことも思うようにいかなかった私が,K POPを聞いてニコニコしているのだ。自分でびっくりした。特に好きなのがBTSなわけだが,初めてDynamite をMTVのUSチャートで見た時に思い出したのが,中学生の時に流行っていたジョン・トラヴォルタ主演の「サタディナイトフィーヴァー」だった。あれは社会現象のようになっていた(その後スターウォーズが現れてしまってかすんでしまったが)。実際BTSのMVには,ジョン・トラヴォルタの決めポーズへのオマージュのようなシーンがある。

Permission to Dance が国連でも撮影されたりビデオチャレンジが世界を駆け巡ったりしているのだが,個人的にはDynamaite と Butter , Run が好きだ(Run は「花様年華」というテーマで制作されたアルバムとその世界観に沿って作られたストーリーの重要な曲で,ル・グィンの世界観に影響されたところとかあって,楽しいダンスには向かないと思う)。

落ち込み,叫びたいのに叫ぶ声も出ない,泣きたいのに涙も出ない,感動のなかった私がちょっと笑顔になれる。それだけでもBTSに感謝したい。

お薬のこと

抗うつ剤のセロトニン再取り込み阻害薬(SSRI 製品名はジェイゾロフト)を増量してから1ヶ月ほどになる。薬の量のせいなのか他に理由があるのかまだ判然とはしないのだが,このところ頭痛と体の緊張が続いている。

頭痛は前からあったので「天気のせいかな?」と考えていたのだが,天気が良い日が続いているのに全く良くならない。光が目に刺さるような感じで痛くなる。テレビや携帯を見るときは,はっきりした色ほど見るとしんどい。

緊張は以前からあったのだが,体のある部分に力が入ってしまって自分の意思では力を抜けない,という状態。だが精神安定剤(デパス)を使うようになってからは,この緊張は和らいでいて,デパスを減らすと緊張が始まるという繰り返しだった。それが,デパスを減らしていないのに緊張が出るようになった。特に首筋と顎の緊張がひどく,とても痛い。顎はうっかりすると噛み締めすぎてしまい,筋肉がこわばって痛くて口を開くことができなくなってしまう。首筋の緊張は左側より右側が強い。右に首が曲がって引っ張られているような感じで,鏡を見ても右に曲がっている。

頭痛とこの緊張は一緒に出てくるようになって,思い当たるのはジェイゾロフトを増やしたことだけである。

ネットで心療内科や神経内科のサイトを調べてみたのだが,抗うつ剤と頭痛で検索すると,「三環系の抗うつ剤で片頭痛が緩和される」というものばかり出てくる。

やっと見つけたあるクリニックのサイトに「抗うつ剤の効果が出始めた頃に片頭痛が起こることがある。」とあった。理由をざっくりまとめると「脳内の情報伝達物質であるセロトニンには血管を拡張させる働きがあり,セロトニン抗うつ剤が効き始める時期にセロトニン分泌が増えることで血管の拡張が起こり片頭痛になる。」

抗うつ剤を使い始めたばかりや増量したばかりには,副反応で吐き気や嘔吐があるのだが,それは薬が段々と体に馴染んでくれば収まり,薬が馴染んで吐き気や嘔吐が収まる頃から,鬱状態で緊張して収縮していた血管がリラックスして拡張するので片頭痛が出る,ということらしい。

体の緊張については,検索してもほとんど出てこなかった。だが自分で考えるのに,体に力が入るようになったから緊張しているのだから,これも抗うつ薬の増量の結果ではないかという気がするのだ。抗うつ剤が安定剤に勝ってしまったような状態。

医師も薬剤師も「ある程度は薬の量を一定で続けないと結果がわからない。」とは言っていた。そして「この次の診療日(増量してから約2ヶ月)にまだ精神的な落ち込みがひどいようなら薬を変える。」とも言った。

SSRIの効果があるのかないのか,自分にはわからない。精神的に前向きになっている,元気になっているという感覚は全くない。今はただ頭痛と体の緊張が辛い。この状態が薬の効果なのか薬の良くない反応なのかもまだわからない。本当にひどい状態(緊張で痛みが取れないとか頭痛で動けないとか)になったら,診療日の前であっても減薬した方が良いのだろうか。

台風が発生したそうなので,低気圧のことを考えるとまだまだ状態が安定はしないと思うが,頭痛と緊張の様子見はしていこう。

曼珠沙華(ヒガンバナ)で思い出すこと①

ナナの散歩道にあった曼珠沙華が,全部しぼんでしまっていた。2〜3日前から色が褪せてきていたので,もうすぐ終わりかな?とは思っていた。

曼珠沙華の深紅の花を見ると,いくつかのことを思い出す。

一つが,小学生の時に国語の教科書に載っていた「ごんぎつね」の物語。もう一つが,列車通学していた高校時代に(電車ではなく汽車だった)ある通過駅の周り一面に咲いていた曼珠沙華のこと。もう一つが「東京喰種トーキョーグール」という石田スイ作の漫画。最後に北原白秋の詩。

列車から見た一面の曼珠沙華は「ごんぎつね」と北原白秋の「曼珠沙華」という詩をどちらも思い出させた。

「ごんぎつね」の中にはヒガンバナが赤い布のように一面に広がるという描写があって,白秋の詩でも地面にキリなく広がるヒガンバナの様子が描かれている。

作者の新見南吉が「ごんぎつね」を書いた時,実は決定稿がなかったそうで,出版される前とされた後に何度か書き直しているそうだ。そのため「ごんぎつね」のテキストが何通りかある状態がしばらく続き,今は大体同じものが使われているようだ。

偕成社版「ごんぎつね」

今一番知られている「ごんぎつね」は,偕成社から出版された黒井健の挿絵のものではないかと思う。いくつかの出版社から出された国語の教科書にもよく使われていた。私が小学生の時にはこの本は出版されていなかったので,挿絵は当然違う人の手によるものだった。またテキストの内容が今広く知られているものとは若干違っていた。

たとえば,新見南吉が生まれ育った愛知県の現在半田市になっている辺りでは,昔はフナのことをキスと呼んでいたので,新見南吉は「キス」という表現を使っていたが,それでは海に棲息しているキスと誤解されることからだろうか「フナ」と書き直したものがある。私が使った教科書でも「フナ」だった。しかし偕成社版や現在広く知られているテキストでは作者の育った地域の「キス」が使われている。(ひらがなで「きす」)

また,登場人物である兵十(ひょうじゅう)の母の葬列の通る辺り一面に咲くヒガンバナを喩える言葉が今では「赤いぬの」が普通であるが,昔の教科書には「ひもうせん(緋毛氈)」と書かれていた。そのため,私は「ひもうせん,て何だ?」と不思議に思って調べたものである。

そういう文章のことはどうでもいい,というといけないのだが,私は「ごんぎつね」を何回読んでも最後に泣いてしまったものだ。ここ10年余りは「ごんぎつね」を読んでいない。以前は仕事の関係で数年おきに読んでいたのだが。今読んだら、私は泣くことができるだろうか。私の涙はちゃんと出てくるのだろうか。適応障害で鬱状態になってから泣くことを忘れてしまい.嬉しいとか悲しいとかの感情もどこかへ忘れているので(犬猫やカメがいると嬉しいのだが),「ごんぎつね」への自分の心情を台無しにしたくないという思いがあり,ずっと読んでいない。

ちなみに私は偕成社版,黒井健挿絵の「ごんぎつね」の絵本を持っているが,小学校時代の教科書の挿絵は影絵を使って表現する藤城清治という作家さんのものだったので(だったはず),最初の印象が強いせいか時々その作家さんの挿絵をまた見たいなと思う。昔使った教科書は皆実家で保存していたのだが,台風被災した実家の片付けと取り壊しの際に処分してしまった。残念だ。

「ごんぎつね」は教科書の出版社によって,小学3年生で学習するか小学4年生で学習するかが変わっている。私は小学3年生で読んだのだが,先生の話はさっぱり聞かず,自分で勝手に最後まで読み進んで,最後にジワジワっと涙が滲んで教科書が読めなくなってしまった。他の子達が先生の進める通りに授業を受けている横で,一人泣いているような子どもが私だった。おかげで3年生の先生にはよく「ばか」と呼ばれたものである。私には全く泣きもせず普通の様子で授業を受けている他の同級生が,異様というか不思議だったのだが。

私が大人になってから出会った小学生のある女の子が「兵十は自分で自分をひとりぼっちにしてしまったよ。」と言ったことがある。「もし兵十がもう少し注意深かったら,ごんに気づいていたかもしれないし,ごんに対する感情も変わっっていたかもしれない。でも怒りの感情が先行していた兵十は,ごんを見るなり銃で撃ち殺してしまった。ごん以外もう誰も兵十を相手にしないよ。今までだって夜の集まりとかに行っても一緒に帰る人もいなかった。一人で夜道を帰る兵十を後ろから見守っていたのは狐のごんなのに。兵十はどう見ても友だちいないよね。お母さんもいなくなった。ごんもいなくなった。ひとりぼっちだね。ごんはひとりぼっち同士だから仲良しになれると思ったのかもしれないけど,兵十は頭悪いよね。でも最後に自分が馬鹿だったってわかったみたい。」ということであった。

もちろん,小学生だったのでこんなにスラスラ語ったわけではなかったが。彼女は,ぽつりぽつりと自分の考えを一文ずつ付箋に書いて,読書ノートを作って見せてくれた。新しい視点から物語を見た気がした。

小学生のとき,私にはただただ「動物が死ぬのが嫌だ」という悲しさがあったと思う(人間が亡くなる物語を読んでもあまり泣かないことの方が多いので)。だから彼女の感想を知って「なるほど,そうだな。」と思った。彼女の感想を聞くまで(聞いてからもではあるが),私は兵十が嫌いだったから。なぜ嫌いだったのか?「あ,私は感受性の鈍い人が苦手なんだな。」と思い至った。

物語を読んでいても,ASDであるとかHSPであるとかが,受け取り方に影響するのだ。

今日,ナナと一緒に散歩しながら,そんな風に昔の自分のことや,私に新しい気づきを与えてくれた女の子のことを思い出した。

北原白秋と「東京喰種」はかぶるところがあるので,思い出したら書いてみる。

BTSが国連で魅せる?

私がここ数ヶ月ハマって抜け出せなくなっている(やっとテレビを見る気が湧いてきたというのが数ヶ月前だったので)韓国のボーカルグループBTS(防弾少年団)が,昨日夜ニューヨークの国連本部でスピーチをした。今日のニュースはあちこちにその話題が出ていた。

国連のサイトには,7人全員が交代でしたスピーチと昼間もしくは前日あたりに撮影したと思しき彼らのヒット曲”Permission to Dance”のパフォーマンスのビデオ(会議場で上映されたようだ)が掲載されている。今回の議長のアブドゥルシャヒード(シャヒームだったか?)さんなんて喜んでいたようだ。アラブ人は踊るのが大好きだ。昼間に撮影されたビデオは,国連の議場からドアを開いて外に出て建物の周りにいた人達(あらかじめ配置?)が自転車を降りたり駆け寄ったりして一緒に踊り出す趣向。BTSはつい最近も世界各地に向けて”Permission to Dance Challenge”を行なっており,欧米やアジア,アフリカあたりから数えきれないほどのダンスチャレンジの様子がSNSで寄せられていた。

確かに世界の人の中には,かなり誹謗中傷する人もいる(特に日本だろうか)。けれど彼らは国連から直々に招待された人達なので(文大統領はオンライン出席でも良いと言われたらしいが),外交官パスポートが与えられたのは入国後の隔離期間短縮,隔離場所などの特別措置のためだろう。

私はたまたま難民の夫と結婚した関係で中東の外交官に会う機会が何度もあったが,割と出鱈目に立場を使っている人もいたので,それを考えたらBTSの方がずっと素晴らしい。

暗い状況に負けそうになる時期だからこそ,笑って希望を持とう,というのはあっても良い意見だと思う。

コロナ予防ワクチン接種についても訴えていた。韓国の摂取率は日本より低いそうだ。事情は色々あるだろうが,政治的なものもあるだろうし,私は韓国で力のある保守的なキリスト教団体などが反ワクチン活動をしているのではないかと少々疑っている。

保守的キリスト教徒は偏見や間違った教義(聖書に書かれていないことを拡大解釈)で動くことがよくある。たとえば「キリストの再臨するための場所としてイスラエルが必要だ」とかである。これは主にアメリカ合衆国の福音派キリスト教徒,韓国と日本の福音派キリスト教徒に多い考え方である。韓国では,イスラエルにも資金援助などをしているバリバリのシオニストが多い。シオニストが行きすぎて,キリスト教徒からユダヤ教徒に改宗してイスラエル人になってパレスチナ人を抑圧弾圧しようとする人が韓国やアメリカ合衆国にあまりにも多くいるので,むしろ現地の正統派ユダヤ教徒の人が戸惑うこともある。

こういうことは,何かしらの宗教の歴史の浅い国,たとえば,戦争後の韓国や日本におけるキリスト教,国自体の歴史が浅いアメリカ合衆国などによく起こる。日本や韓国などは戦時中にキリスト教徒であることで迫害されるからと適当に教義を変えてしまっているから,余計に厄介である。

宗教理念への正しい理解が不足しているのに「ただ一所懸命」「とにかく実行」になってしまうから恐ろしい面もある。

アメリカ合衆国やカナダでは,中東でパレスチナ人が一方的にイスラエルにミサイルや砲弾の攻撃を受けて逃げ場もなく傷つけられるだけの時,ユダヤ教徒がイスラエルに反対してデモなどしてくれる。なのに保守的(福音派)キリスト教徒がイスラエルを支持して平和解決を望むユダヤ教徒を迫害する。おかしな話である。

私は夫が難民で,夫の親戚に国連の仕事をしていた人もいた。また実際に夫が実家に帰っている間にイスラエルが攻撃してきた際,戦争状態になり夫と連絡が取れなくなって,あちこち公的機関に相談したことがある。その時にも色々調べた。

国連は今世界で溢れてきている難民を保護すると称してUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)を立てているけれど,UNHCRが設立されるより前に発生した難民であるパレスチナ難民には,全く何もしてくれない。「うちの業務ではありません。」と門前払いだ。パレスチナ難民にだけはUNRWA(国連難民救済機関)というものがあるが「難民はUNHCRが対処しているから」とか色々な理由をつけてUNRWAの予算は年々削られているのが現状で,パレスチナ難民はまともな医療も受けられず食物もない。そんな状態でパレスチナ人は70年以上難民のままでいる。

ガザやヨルダン川西岸,レバノン,シリア,イラクなどがイスラエルやアメリカに攻撃され荒廃し物資が何もなくなっても,UNHCRは何もしてくれない。UNRWAにはお金がない。せめて一つの場所に囲い込んで人々の頭の上にミサイルを降り注ぐことはやめてほしい,と中東の代表が国連で議題を提案しても,いつもアメリカ合衆国の保守派が拒否権を発動するので拒否され,人々は見殺しにされる。

もう20年近く,そんな状況を見てきた私は,めちゃくちゃ国連不信な面がある。国連に夢は見られない。

でもBTSが伝えてくる「暗い世界状況でこれ以上暗いことを考えていたら潰れてしまうから,きっと良くなるから未来にウェルカムしよう。」というメッセージはそれは若い彼らの誠意だとも思う。それに彼らはまだ20代なのだ。夢を持ってもいいだろう。

少なくとも,この数ヶ月,私はBTSのおかげで精神的に随分マシになってきたような気がする。起きて動く時間が増えたような気がするし歌を口ずさむこともある。音楽なんて,もう長いこと聞かなかったのに。

私の携帯には種々雑多な音楽が入っている。日本や韓国,UK,アイルランド,アメリカ、カナダ,フランス,ブラジル,オランダ,ドイツ、フィンランド,スウェーデン,モンゴル,イラク等々のロックやクラシックや民族音楽やジャズやアニメソングや・・・ありとあらゆる種類が入っているのに。母や姉や夫の介護の頃や,母が死んでからは,音楽を聞くこともあまりなかった。車の中で歌うこともなかった。数年前までは車を運転しながら音楽に心を揺さぶられて涙を流すこともあったのに,ここ数年はいつでもどんな時でも涙の一滴も出ない。

BTSを聴いたのはたまたまだった。壊れていたテレビのチューナーを交換して,最初に見たアメリカビルボードチャートの特集でBTSの曲が2曲か3曲チャート上位に入っていたから。それを聞いてからBTSの情報を追いかけ始めた。初めは顔の区別もつかなかったが,すぐに区別がつくようになった。興味を持つということは素晴らしいエネルギーを生むものだ。

BTSの歌で少し動けるようになった,ような気がする(気がするだけだが)。ナナの散歩もすごく短かった距離から少し伸ばすことができたような気がする。まだ食事はまともにできないが,きっといつか食事もできるんじゃないかと思う。

私の年齢だと「未来にウェルカム」は難しいけれど,若い人たちに何かしらの希望が持てるような世の中にするには,やはり大人が頑張らないといけないのではないかと思う。特に国連とか国会とかそういう重要なポジションにいる人間は自分の利権ばかり考えず,少しでも国民や世界のことを考えてほしい。それが難しいわけではあるが。

RM(キム・ナムジュン)が環境汚染や自然破壊について触れていたことも,自然の中にいることを好む私には大切なことだった。

RMはとてもIQが高くギフテッドだそうなのだが,音楽を志して大学へは行かなかったそうだ。でも多分彼ぐらいのギフテッドは普通の大学に行っても多分辛いと思う。軽度のギフテッドの私でさえ辛かったからそう思う。

彼らが今いる場所は彼らと彼らを支えた人達の功績だと思う。そして国連は割と有名人を呼んできてスピーチさせたり、国連のナントカ大使とかにして一般大衆の機嫌を取ろうとする。そんなかで彼らは彼らなりにメッセージを発信したのだ。偉そうなことをいくら言っても私生活がボロボロで周りを傷つけるような女優さんとかも国連のナントカ大使やスピーチをしてきたことを考えると,BTSの方が素晴らしい,と私は思う。

割と多くのアメリカ人と付き合ってわかったことだが,アメリカ人には世界地図(場合によってはアメリカの地図さえ)が入っていないことが多いから,世界を語るのは難しいし適当にそれっぽく誤魔化すしかない部分もあるだろう。アメリカ人に何回「日本は中国のどの辺?」と聞かれたことか。多分,私が会った中で日本や中国に興味を持っていて場所がはっきりわかっていたアメリカ人は,私の友人一人しかいない。欧米で暮らしていた知人達もおおよそ似たような話をする。

正直に言えば,決して今回のBTSの国連スピーチを手放しで賞賛したり喜んだりしているわけではない。

彼らには彼らのままでいてほしい。それが私を元気づけてくれる。国連がどれだけしょうがない組織か知っているので,あまり国連に利用されないと良いなと思うのだ。

来年あたりはBTSメンバーの中にも兵役義務に就く人がいるだろう。全員が揃っている今,3回目の国連への招待と2回目のスピーチ,彼らにとっても大切なことだったろう。

私は国連に夢は見ていない。だがBTSを招待したのは国連もかなり時勢を見たな,と感心したのだ。

通院日

このところ調子が悪く,今週初めに予約を入れていたのに,クリニックに行けなかった。体に力が入らず,目が回っていたので,とてもではないが車の運転などできないと判断した。電話でキャンセルの連絡をすると,今週はまだ空いている時間があったそうで,そこに入れてもらうことができた。体調をよく見てからにしたかったので,少し遅めの時間にした。

今通っているクリニックは,現代人,特に大人の心の病や障害へのケアのためであろうけれど,午前中はあまり早くない時間に診療が始まって,夜割と遅くまで受診が可能である。医師の方々は1日に数人いて,週に数日出て交代というようで,先生によっては土日に診療が入っているので,仕事の休みに受診する人も多いようだ。

子どもの場合は心療内科ではなく,小児科で診てもらうか,小児科に紹介された総合病院に行くケースがほとんどだろうから,心療内科クリニックといえば,受診するのは大抵大人,あるいは高校生以上ぐらいである。

大人だけといっても,それでも受診する人は多い。私は夕方の午後診療が始まって2番目ぐらいの時間帯に予約しているのだが,私と同じぐらいの人やちょっと若いぐらいの人,学生さんかな?と思われる人,いかにも仕事をしていそうな人,等々が待合室にいる。今はコロナ感染予防のためにソーシャルディスタンスが求められているので,待合室のベンチでは皆さん一人おきに座っているが,私にはそれがとても難しい。

まず,他人が触ったものに触ることが難しい。洗ったり消毒したりすれば平気。死ぬほど我慢できないものではないが,どうにも難しい。だから子どもの頃から母に消毒用アルコールを浸ませた脱脂綿をもらっていたし,大人になってからは自分で消毒用アルコールを持ち歩くようになった。

だから公共の乗り物がものすごく苦手だ。元々普通の人以上に乗り物酔いしやすいためあまり公共の乗り物に乗らず(吐いたりしたら他の人に迷惑だし)自家用車を使っているが,どうしても乗る時には吊革に掴まれない。立ってバランスを取っている。

電車やバス,病院の待合室ではイスを除菌ティッシュでさっと拭くが,それでも怖い時は座らずに立っている。そもそも,新幹線のように窓が開かない列車や観光バスは怖くて息苦しくなってしまうので乗れない。どうしても乗らねばならない場合,たとえば夫の実家に行くときの飛行機や仕事で仕方なく公共の乗り物を使う際は,安定剤を1錠多くするなどして対応してきた。

心療内科に行っても,待合室のイスを消毒する。それができない時には立っている。

今週の通院日は,予約日と時間を変更したためなのか,たまたまその時だけだったのか,待合室がいっぱいだった。いくら一人おきにベンチに座っていても,ドアを開けて入った瞬間,マスク越しにもわかるひといきれで「うっ」と唸ってしまった。そのまま待合室の一つ隣にある受付のある部屋に戻り「ここにいてもいいですか。待合室がいっぱいなんです。」とお願いして許しをもらって待つことにした。

今回の診察で医師から「体調も精神状態もあまりよろしくないようだが,ジェイゾロフトは量を変えたばかりなので,もう少し今の薬で様子を見て,改善が見られなければ薬を変える。」という話があった。

1ヶ月前に抗うつ薬のジェイゾロフトを増やして,副反応の吐き気は体が薬に馴染むにつれて落ち着いて来たから,まだしばらく様子を見るということ。

ジェイゾロフトを増やして1ヶ月続けてみて,初めの頃は下を向いただけで吐きそうになっていたのが,ここ1週間ほどはゲップとしゃっくり程度になって来た。

ただそれは,食べていないというのも関係するかもしれない。あまりに吐き気が酷かったので,食べる気になれなかったのだ。(夫には勝手に食べてもらっている。)お茶とポカリスウェットと野菜ジュース,それから何か甘い物(だいたいは小豆の煮たの)を茶碗半分ぐらい。体重が少し減ったが激減というのではない。ちょっと服の腹回りや指輪が緩くなったぐらい。

ジェイゾロフトはSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の中では比較的効果が緩やかだそうだ。だから少量ずつ試していく初期の処方に使われることが多いという。私がこの薬を使い始めたのはもう随分前で,今通っている心療内科クリニックではない総合病院の総合診療科で処方されたのが始まり。

はじめのうちは1日1錠でなんとか調子が良くなって,だんだん2日に1錠になったのだが,職場が変わったことや(今は仕事はしていないので大分楽なのだが)母の癌手術と入院の遠距離介護,姉の自傷とミュンヒハウゼン症候群のような状態による救急搬送の繰り返し,夫の怪我と手術入院やリハビリ,実家の自然災害被災と家の消失などなど続いているうちに,1日2錠になり,更にそれでも無理ということで1日3錠になった。しかし副反応が私の感覚過敏のせいか異常に激しかったために減薬しては増やし,嘔吐を繰り返し,また減薬し,人格乖離状態になり,増薬し,嘔吐しの繰り返しになってしまった。

この次薬を変えるとしたら何になるのかわからないが,抗うつ剤の中でパキシルは既に体に合わないことがわかっているので,そこは医師と相談しなければならない。

薬の管理というのは,特に副反応や揺り戻し(精神的落ち込みがどっとくる)などの危険がある抗うつ剤では,医師と納得がいくまで話し合う必要がある。医師が受診者の言うままに大量に薬を出してくるところは,行ってはいけないと思っている。それは患者の体や生死について無責任だということではないかと考えるから。かといって絶対に正しく診断して治療してくれる医療機関というのは,少なくとも心療内科では存在しないような気もしている。

それでもなんとか生きている。

大人でもADHD

https://www.lifehacker.jp/2021/09/are-you-living-with-undiagnosed-adult-adhd.html

「大人の『隠れADHD』とは? よくある症状やその特性」という記事が出ていたので読んだのだが,「どうしてこういう表現になるのかな?」と疑問に思うところがかなりあった。それなりにADHDの特性はおさえてはいるのかもしれないのだが。

(以下引用)

ADHD(注意欠陥・多動性障害)を抱えた生活とは、いったいどのようなものなのでしょうか。ADHDについてはさまざまな誤解が存在しています。多くの人が思い浮かべるのは、じっと座っていられない男の子かもしれません。また、世間では一般的に、大きくなるにしたがって症状は自然に消えていくのだろうと考えられています。

「ところが実際には、ADHDはそんな単純な病気ではなく、大人になっても治らないケースが多々あります。その症状も、集中できない、じっとしていられないなど、実にさまざま。というわけで、子どものころからADHDの症状が出ていたにもかかわらず、正しい診断や治療を受けていない人が数多く存在しています。

「『ADHDという病名は、その実態とはかけ離れています。集中力のなさは、症状のひとつにすぎないからです。』ミネソタ大学医学部で心理学を研究するLidia Zylowska氏は、そう語っています。

「もしかすると、自分は大人のADHDかも」そのように感じている人は、なるべく早く診断を仰ぎましょう。治療を受けずにいると、公私にわたってさまざまな問題が起こるおそれがあるからです。

「また、診察を受けるときには、大人のADHDに関する専門医を選びましょう。ADHDをめぐる誤解の多くは、医療分野にも広がっているからです。

(以上引用)

引っかかったのはADHDを最後まで「病気」と表現しているところ。大人になっても治るものではない,という点をおさえているのだから,そこは「障害」という表現にしてほしかった。「病名」というのは翻訳の間違いかもしれないが。

ADHDがあると,ひらめきはあるのだが具体化するための計画を立てることが難しい。計画を立てることができたとしてもそれを実際に行うことが難しい。

時間の見積もりを立てることができず,たとえば,早く仕事に行くために早起きしても「時間に余裕ができた」と感じて何か別の作業を始めてしまい没頭してしまい,肝心の仕事に出かけることを忘れて遅刻する。1時間いつもより早く起きたら1時間余計なことをして,結局いつもと同じか遅れてしまう。そんな時に「もうちょっと早く起きろ」と言われても「早く起きているんだがなあ?」となってしまう。外出時に目的地まで十分すぎる時間的余裕を持って出たはずが,道に迷ったり横道に逸れたりして気づけば遅刻している,などということがよくある。道に迷うのは注意がそれてしまうから。

本文中の「ハイパーフォーカス」についての内容は良かったかなと思う。「ADHD=注意欠陥性多動障害」というと絶え間なく動いているように聞こえるが,上にも書いたけれど「朝早起きした→時間に余裕がある→何かできる→何か始める→夢中になって時間を忘れる→遅刻」そんなことがよくある。

変に余裕があるとその場で必要ないことを始めてそれに没頭してしまい,周りの状況や情報は一切入って来なくなってしまうのだ。

文中にもあるけれど,こういった傾向は子どもの頃からある。けれど「おっちょこちょい」「忘れっぽい」「怠け者」などレッテルを貼られてしまって適切に対応されていないことがほとんど。また勉強ができてしまうと「ふざけている」と教師や周囲の大人からの敵意の対象になってしまう。

私は数年前に検査した結果,軽度のギフテッド(先天的に、平均よりも、顕著に高い知性と共感的理解、倫理観、正義感、博愛精神を持っている人のこと。外部に対する世間的な成功を収める、収めないにかかわらず、内在的な学習の素質、生まれつきの高い学習能力や豊かな精神性を持っているということである。引用元:Wikipedia)だった。

中学時代にも同様の結果が出ていたので,放課後に生徒指導室に呼び出されてはお説教をされていた。「どうして真面目に授業を受けないのか(教科書もノートも開かないで窓の外や時計を見ている)」と毎日怒られていたのだ。

ADHDという概念がなかった時代でもあるし,あったとしても中学生の生活というのは大体部活が中心だしで,先生にはあまり期待していなかったが,テストの成績が良くても怒られるのだから,理不尽だとは思った。

だがADHDがあったためだろうが,黒板の板書をノートに書き写すことはできなかった。全て聞いて暗記するほかなかった。外を見て天井を見て時計を見て,教科書に落書きしていることで,なんとか席に着いている状態だった。そうでなければ歩き出して教室の外に出ていたと思う。さすがに「教室から出て行くのはまずい」という理性が働いていたから,自分を着席させていたのだ。

着席して授業時間内は教室にいることが,ADHDのある子どもにはとても難しい。

それでもなんとか周りの大人の顔を見て,なんとか期待されていることをしようとはする。

中学時代,私は部活動ができなかった。集団行動が苦痛でしかないから。中学では美術クラブにはいたが部活はしなかった。その代わり,放課後や昼休みはいつも図書室に行った。卒業までに図書室のほぼ全ての本を(斜め読みを含めて)読んだ。

高校では文芸部に入った。この部活は卒業まで続いた。なぜかというと集団行動ではなく個人でできることだから。原稿を書くことも校正することも一人でできるから。ちなみにこの高校の文芸部は,日本全国対象の文芸コンクールでは評価が高い。なのに部員全員が妙に自由だった。

集団で,皆が同じ時間と場所に縛られている状態が苦しかった。授業だけでも苦しいのだから放課後までそれは勘弁してほしいと思っていたから,文芸部の存在は新鮮だった。しかも本を読んで分析したことを文章にしても誰にも怒られないのだ。中学のように「そんな難しい言葉を使うな」と怒る先生もいないのだ。

私は,「ADHDがあると,そういうこともあるよね。」という幾つかのパターンを周りに知ってもらいたいとは思う。「それを知っているだけで,あなたはイライラしなくて済むんですよ。」とも言いたい時がある。ADHDのある人間と一緒に仕事したり生活したりする場合,きっとイライラすることがあるだろうから。周りの人がイライラしていると,きっとADHDの有無に関わらず誰でも萎縮して動けなくなってしまうから。お互いにあまり良い結果につながらないと思う。

私は通学のために列車に乗っているだけで,毎日疲れ切っていた。周りの情報が多すぎること,音声が周囲360度から入ってきてしまうこと,などなど。特に周りの人の会話が辛かった。ウォークマンがこの世に出た時にはとても嬉しかった。

決められた時間内に動くことに関しては,ちょっと声をかけてもらえればかなり対処できる。周りの音や声で注意が散漫になりそうな時は,ヘッドフォンをすると動きやすいのでそういう補助具を使うことを許してもらえるとありがたい。

ADHDがあってもなくても,自分以外の誰かのことを理解しようとすることとか,その人に必要な支援(背が低い人の代わりに背の高い人が荷物を棚に乗せるように)があると助かる。

そしてADHDは病気ではないので,一生治らない。でも,本人の理性と理解や周りの理解があればなんとかやっていけると思う。

アダルトチャイルド(チルドレン)と心療内科

ACというのは某広告の広告ではなく「アダルトチャイルド(チルドレン)」の略称で,カウンセリングや心療内科にお世話になると聞くことがあるかもしれない。興味がある人なら知っている単語。

アダルトチャイルドと言うと勘違いされやすいが,大人になっても子どもみたいな人のことではなくて「子ども時代に大人のように振る舞わなければいけなかったために,人間の成長過程の土台が構築できなかった人」のことである。

人間の心や感情を建物に例えて考えると,どんな建物でも土台(土の中の杭とかコンクリートとか)が必要で,土台の上に順々に材料を組み立てていくわけだが,ACの場合は土台がない所に無理やり建材を載せているので,グラグラしたり,床から腐ってきたりした状態になる。

家で言ったら住みにくいし,人間だったら生きづらいし,いずれにしてもいつ崩れるかわからない。

ACという単語は元々は「アルコール依存症の親(保護者)がいる家庭で育ったこども」が主な対象だったが,アルコール依存症の他にも親が親として機能していない家庭で育った子ども対象となった。

アルコールを摂取すると人間の脳は本人が自覚していなくても機能不全に陥る。体幹維持もままならなくなり記憶や理性の欠落が生じる。

記憶がないので約束も破ることが頻繁に起こり(覚えていないから破った自覚はない),理性が働かないので暴力をふるうこともある。

そのような状態の親のもとで育つ子どもは,常に親の状態を気にかけていなければならない。

時には子どもが動けなくなった親を介抱したり,親の代わりに家事もしたりしなければならない。アルコールで記憶が欠落している親にはそんな子どもの苦労は全く認識されない。子どもが親の親代わりにならなければいけなくなる。

本当は子ども時代の人間としての精神を育むべき時期に,子どもらしい体験もしないまま大人として振る舞わなければならない。土台のない建物になる。

このような状態を「機能不全家族」と呼ぶ。

機能不全家族が生じ得るのは,親がアルコール依存症の場合だけではない。薬物やギャンブルなど,他の依存症の場合はもちろん,親が親として子どもを保護し成長に必要なケアを与えることができないのであれば,親がADHDやASDの場合等親が何らかの障害を有している場合,親自身がACである場合など「子どもが子どもであることが許されない」状況は機能不全家族になることが多いと言われる。また,経済的貧困や戦争なども機能不全家族が生まれる原因となりやすい。

私はADHDやASDの診断を受けるよりもずっと以前,10年一昔と言うならば二昔以上前にACであると診断された。私の家は,外から見るとむしろ「恵まれた家庭」だった。だが両親は子どもと向き合って話すこともなく,子どもの健康状態にも興味がなく,子どもが何をしているのかにも興味がなく,興味がないのに子どもが友達を作ることは好まず,子どもが子どもらしい遊びや子ども自身にとって楽しいと思えることをするのを好まず,子育ては私にとっての父方の祖母に任せ,その父方の祖母を両親そろって毎日罵倒し時には手をあげていた。その様子は私には両親が祖母を虐待しているようにしか見えなかった。祖母を庇おうとすると私も手を挙げられ罵られた。

両親にとって,学校の成績は良くて当たり前,テストは100点が当たり前。私も姉もそう言うものだと思っており,いつも100点だったが特に褒められたこともない。

私には生まれつき消化器系の疾患があり,頻繁に腸閉塞になっていたが,七転八倒して苦しむ私に両親は「気のせいだ」と言うだけだった。具合が悪くなるといつも,父方の祖母が嘔吐して泣き叫ぶ私を背負ってバス停や駅まで走り,病院へ連れて行ってくれた。祖母がいなければ私は幼児期に命を落としていたと思う。そして私は子どもの頃から注射や点滴なんて慣れっこだった。大昔のこと田舎のことでもあって,病院の職員の人達も顔見知りで祖母も一緒だったので,保険証などの提示も特にしないまま処置を受けていた。

小学生になってからは,自分一人で病院へ行った。祖母には祖母でしなければならない仕事がたくさんあったから,自分で行こうと思ったのだ。

流石にその頃になると世の中でも保険証を受診時に提示する流れになっていたので,具合が悪いと自分で判断し,父親に頼んで保険証を貸してもらい(当時の保険証は被扶養家族は扶養者の保険証に名前が書かれていた紙だった),母に頼んで受診料と交通費その他諸々に必要なお金をもらって,一人で列車に乗って一駅の病院へ行った。その間腹はずっと痛いし吐きそうだったが我慢した。

小学低学年からずっとそんな状態だった。

私は手術を受けたかったのだが,母が「絶対にだめ」と反対していたので,未成年のうちは手術を受けられなかった。成人し,自分で働いて得たお金で手術を受けた。

本当は,新生児の段階でわかって手術を受けるのが一般的な病気だった。ヒルシュスプルング病と言う。だが母も父もあまり私の健康状態に興味はなかったのだ。

ネグレクトに近い状況だった。

ACのことや家族のことを書いて行くと非常に長くなる。なので,一つの例として,こういう状態はACなのだ,ということだけ書いてみた。

ACの子どもが大人になってもACのままであれば,放っておくと親から子へ子からその子へと延々と続いてしまうものなので,どこかでこのループが断ち切られると良い。私は,ACの症状で数年心療内科に通い,自助グループワークに参加した。

その心療内科で「あなたにはADHDがあると思いますよ。」と告げられたのだ。そして20年以上経ってから引っ越した先の心療内科でADHDとASDの診断を受けた。

心の病気や障害は,一人で抱え込むより第三者の専門家に相談する方が良いと思う。自分だけどうしてこうなるの?自分がいけないの? と一人で悩むよりも客観的に原因がわかれば対処法も見えてくるから。

ただし,私の姉がかつて受診していた精神科では,患者が「これこれの薬をこれだけください」と言うとそのまま処方し,更に患者の症状に関係ない薬まで大量に処方していた。病院内薬局であったため薬剤師との相談もなかった。問題を感じる。

心療内科でもどんな病院でも,理性的に患者の状況を見て丁寧に解説してくれて不必要な薬は出さない(必要なら出す)所が良い。そしてこちらの話を遮らずに聞いてくれること。

心療内科の診察時間は大体一人20分程度。これ以上ダラダラ喋っていても愚痴の垂れ流しになってしまうから。この時間内に自分の状態を言語化して医師に伝え,医師からの説明や助言を受け,治療について話し合って決める。これは20年前に初めて心療内科で説明されたこと。今通院しているクリニックでも同じである。

感情が溢れてしまって肝心の症状を伝えられないといけないし,本人が自分を客観視して自分の症状を適切な言葉で表現すること,そのために最適な時間が20分なのだそうだ。時間の制限があることで,自分の言葉を吟味することもできる,と言う意味合いもあるそうだ。

自分の伝えたいことは,その都度一言メモなどしておくとまとめやすい。私はメモを失くすかもしれないので携帯のメモ機能を使っている。後で文書としてコピーペーストできる。

ACで辛い人はたくさんいるのだろう,と思いつつ経験談を書いてみた。

自立支援(精神科)のための医療費助成制度

昨日,自立支援受給証の更新手続きに行った。正式名称は「自立支援 医療費自己負担額上限管理票」という。

これがあるおかげで月に2〜3回の心療内科への通院や,必要に応じた検査を受けることができている。なかったら,生活への負担が大き過ぎてとてもではないが通院できない。もし自立支援がなかったら,診察料や処方料や投薬料で1回につき6〜7千円かかってしまう。特に検査費用は高額なので,検査まで行ったら1度に1万円は軽く超えてしまうのでとても助かる。

30年以上頑張って働いて,独身時代が長かったし結婚しても子どもを亡くしてしまったので,税金も年金も健康保険も普通の人達より倍ぐらい払ってきたことを言い訳にして(扶養家族がいないと税金や年金や健康保険は扶養家族がいる人の2倍かそれ以上ぐらいになる)「ごめんなさい」と思いつつ社会福祉のお世話になることにした。

この支援制度を使うと,医療費負担が一般的な3割ではなく1割になる。その1割負担で支払っていって1ヶ月の合計が1万円までが支援対象になる(今年度から改訂。以前は2万円だった)。1万円を超えると3割負担になる。支援の上限は収入や職業の有無などによって変わってくるらしい(関係ないことは詳しくは聞けない)。私は職場に籍だけは残っている,休職という形である。

私の場合の支援受給対象の疾患は「うつ病」「適応障害」になっている。食事ができない,動けない,外に出られない,眠れない,などなどの症状がある。症状は人さまざまだろうが,心の病気や発達障害は外から見てもわからないので,なかなか苦しさがわかってもらえない面はある。

外に出られないという症状ならばわかるだろうが,眠れないとか食べられないとか家の中では這いずって移動しているとかは,家族でないとわからない。仕事をしていた時は職場でだけ(昼だけ)他の人と同じものを食べていたが,昼休みに嘔吐して食べ物にされた動物や植物に申し訳なくなることもあった。

「自立支援医療費自己負担額上限管理(自立支援と略したい長いから)」の対象となるのは市町村によって基準が変わることもあるが,ほとんどのところで「うつ病」「てんかん」「統合失調症」「双極性障害(躁鬱病と呼ばれている)」は認められている。それ以外も「などなど」のくくりで認められることがある。

私がこの自立支援制度を使い始めたのは2年前で,本来は1年ごとに更新手続きが必要なのだが,昨年はコロナウィルス感染拡大予防のために公的機関でも間引き業務(というのか?)が行われていて,自動的に更新されることになったのだ。なので今年が初めての更新になる。来年からどうなるかは,まだコロナが蔓延しているのでわからない。

自立支援の申請に必要だったのは,まず市の書式の診断書を医師に書いてもらってから,市の書式の申請書と(課税納税状況を調べていいですかという)同意書,自分の印鑑と健康保険証とマイナンバーのわかるもの(申請書にマイナンバーを書くところがあるから)。

クリニックに通い始めた頃はまだ仕事をしていたので気にならなかったが,収入がなくなれば通院はできないのだ,ということにかなり後になってから気がついた。通院始めの頃は,夫が大怪我をして手術入院したり母が末期癌で入院したりで支出も多かったので自分のことは後回しにしていた。当時は支出に関係なかったが,姉に自傷の傾向があり何度も救急搬送されていたので精神的にいっぱいいっぱいだった。そして極め付けは台風が実家を洪水で流して壊した。

頭も体もいっぱいいっぱいの時,医師から「仕事を続けていると自分の命がもっともっと削れますよ」と言われ,クリニックの受付の方から自立支援制度の案内プリントをもらって「休んでいいのかな。」と思いはじめた。それでもその後もしばらくは仕事を続けていたのだが,ついに自分がどこで何をしているのかわからなくなった。

私にはADHDがあるので,物事の順番づけが難しい。まず社会的な仕事は最初にやらなくちゃとは思う。次に何をどんな順番でするかがわからない。仕事,親の病気,姉の心の病気,夫の怪我,全員が入院していること,台風で被災して壊れた実家をどうにかしないと・・・と考えていたら頭が動くのを拒否した。

自分が壊れる前に自分が自分を助けてやらなくてはいけないと,今なら思う。家族が皆倒れて家も倒れて,それでも私は誰にも「疲れた」ということができなかった。仕事ではいつも笑顔で元気いっぱいなふりをしていた。

自分が助けないといけない,誰も自分を助けられないのだ,と思う。だから,自立支援制度を使ってでもなんでも自分に必要なケアをしなければいけない時があるとも思う。そうでなければ,たとえば,車を運転していていきなり手を離して遠くを見てしまうかもしれない,電車が入ってくる時にホームから足を踏み出してしまうかもしれない。誰にでも他人に察してもらうことを待つより,自分が動けるうちに自分を助けて欲しいと思うのだ。