夫の作るファラフェル(ひよこ豆コロッケ)

昨日,夫の休みが取れたので,彼が前々からずっと気になっていた実家の草刈りと姉と私へのランチご馳走の日と言うことになった。

ランチといっても,どこかへ食べに行くのではなく,夫が中東料理「ファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)」を作ってくれるというもの。

夫は料理が上手でよく自分で何かしら作っている。彼のお母さん直伝のパレスチナの料理(レバノン料理とほぼ同じだが時々違う)や自分で考えたオリジナルなど。味も美味しいし盛り付けもきれい。料理をするたび,同じ料理であっても味が違ってしまい2度と同じものが作れない私とは大違いだ。

最近はファラフェル用の抜き型を買ったので,盛んにファラフェルを作っている。

私は今のところ毎日しっかり食べるというのは難しく,2日に1回ぐらいレトルトカレーを温めもせずパックから食べたり,箱買いのクロワッサンを時々かじったりしている。夫は私の調子が悪くなり始めた頃は「美味しいご飯ができたよ」と料理してくれていたのだが,私が食べられなくて悲しい顔をするので「食べられる時には言って。美味しいもの作るから。」と言ってくれるようになった。

彼は仕事が力仕事なので毎日しっかり食べている。今回のファラフェルは休みの時に大量にタネを作って小分けして冷凍していた。前からずっと「食べて食べて」と言っていたのだが,なんだかんだで私の調子が悪かったのだ。

私の姉の状態もあまり良くないことを知っているので,夫は「お姉さんにも食べさせたい。」と言っていた。姉は私と違い,毎日食事はしているので行く日を伝えて心構えしてもらった。

ファラフェルのタネというのは,一晩水につけたひよこ豆をミキサーで砕いて,重曹を少々,パセリやコリアンダーの微塵切り,おろしニンニク,塩とスパイス(クミンとかカルダモンとかパプリカとかシナモンとかお好み)を混ぜてこねて(見た目は餃子の中身に似ている)丸い型で抜きながら油に落として揚げて作る。

一括りに中東と言ってしまうけれど,言語や料理は大分違うところもあって,エジプトだとファラフェルではなく「ターメイヤ」と呼んでいて,ひよこ豆だけでなくソラ豆を潰して加えている。でもそのターメイヤをファラフェルという地方もある。料理は地方によって形態が変わるのは,きっとどこでもあるのだろうけれど。

揚げたてのファラフェルをそのまま食べても美味しいが,ピタパンにホンモス(ひよこ豆とレモンとオリーブオイルとニンニクの塩味ペースト)を塗って,トマトやレタスやキュウリのピクルスなどと一緒に挟んでレモン味のねり胡麻のソースをかけるとすごく美味しい。普段ピタパンは夫が暇な時に作るのだが,今回は市販のトルティーヤでくるりと巻いてみた。オリーブも添えてみた。

ファラフェル,付け合わせレタスと青唐辛子,オリーブのピクルス,ホンモス,タヒーナ(ねりごま)ソースと野菜

姉のいる実家に行く道すがら「何が必要だったっけ?」と夫と二人で話し合いながら買い物をした。普段行く自宅近くのスーパーには普通にキュウリのピクルスやオリーブピクルスの瓶詰めがあるのだが(一番良いのはイオン系の「やまや」というお店),そのスーパーにはすごく小さなキュウリのピクルスのパックしかなかったので数袋買った。トルティーヤは当然だけどなかった。事前に買っておいて良かった。ホンモス(フムスという人もいるがアラビア語ではホンモス)は夫が大好きな業務スーパーで買ったもの。

普段なかなか同じものを同じ時に一緒に食べられないことで,いつも夫には申し訳なかった。一所懸命私を喜ばせようとしてくれることに(自分の料理の腕を自慢したい気持ちが1〜2割ぐらいあるが)感謝した。本当に久しぶりに「美味しい」というのはこういうことか,と思った。でも普段は無理なのだ。それがやっぱり残念。でも一緒に食事をして一緒に美味しいと思えることは素晴らしい。私は前日から「明日の昼は食べる」と身構えて胃を空っぽに近い状態にしていたが(姉も同様にしたらしい),それがなくても揚げたてのファラフェルを挟んだ中東風サンドイッチは,じんわりと美味しさが感じられた。じんわりじんわり嬉しい。

姉も,一口かじった次の瞬間「すごく美味しい」と泣きそうになっていた。

そのようなわけで,今回の夫による「ランチ大作戦」とも言えるランチ会は大成功だった。

アダルトチャイルド(チルドレン)と心療内科

ACというのは某広告の広告ではなく「アダルトチャイルド(チルドレン)」の略称で,カウンセリングや心療内科にお世話になると聞くことがあるかもしれない。興味がある人なら知っている単語。

アダルトチャイルドと言うと勘違いされやすいが,大人になっても子どもみたいな人のことではなくて「子ども時代に大人のように振る舞わなければいけなかったために,人間の成長過程の土台が構築できなかった人」のことである。

人間の心や感情を建物に例えて考えると,どんな建物でも土台(土の中の杭とかコンクリートとか)が必要で,土台の上に順々に材料を組み立てていくわけだが,ACの場合は土台がない所に無理やり建材を載せているので,グラグラしたり,床から腐ってきたりした状態になる。

家で言ったら住みにくいし,人間だったら生きづらいし,いずれにしてもいつ崩れるかわからない。

ACという単語は元々は「アルコール依存症の親(保護者)がいる家庭で育ったこども」が主な対象だったが,アルコール依存症の他にも親が親として機能していない家庭で育った子ども対象となった。

アルコールを摂取すると人間の脳は本人が自覚していなくても機能不全に陥る。体幹維持もままならなくなり記憶や理性の欠落が生じる。

記憶がないので約束も破ることが頻繁に起こり(覚えていないから破った自覚はない),理性が働かないので暴力をふるうこともある。

そのような状態の親のもとで育つ子どもは,常に親の状態を気にかけていなければならない。

時には子どもが動けなくなった親を介抱したり,親の代わりに家事もしたりしなければならない。アルコールで記憶が欠落している親にはそんな子どもの苦労は全く認識されない。子どもが親の親代わりにならなければいけなくなる。

本当は子ども時代の人間としての精神を育むべき時期に,子どもらしい体験もしないまま大人として振る舞わなければならない。土台のない建物になる。

このような状態を「機能不全家族」と呼ぶ。

機能不全家族が生じ得るのは,親がアルコール依存症の場合だけではない。薬物やギャンブルなど,他の依存症の場合はもちろん,親が親として子どもを保護し成長に必要なケアを与えることができないのであれば,親がADHDやASDの場合等親が何らかの障害を有している場合,親自身がACである場合など「子どもが子どもであることが許されない」状況は機能不全家族になることが多いと言われる。また,経済的貧困や戦争なども機能不全家族が生まれる原因となりやすい。

私はADHDやASDの診断を受けるよりもずっと以前,10年一昔と言うならば二昔以上前にACであると診断された。私の家は,外から見るとむしろ「恵まれた家庭」だった。だが両親は子どもと向き合って話すこともなく,子どもの健康状態にも興味がなく,子どもが何をしているのかにも興味がなく,興味がないのに子どもが友達を作ることは好まず,子どもが子どもらしい遊びや子ども自身にとって楽しいと思えることをするのを好まず,子育ては私にとっての父方の祖母に任せ,その父方の祖母を両親そろって毎日罵倒し時には手をあげていた。その様子は私には両親が祖母を虐待しているようにしか見えなかった。祖母を庇おうとすると私も手を挙げられ罵られた。

両親にとって,学校の成績は良くて当たり前,テストは100点が当たり前。私も姉もそう言うものだと思っており,いつも100点だったが特に褒められたこともない。

私には生まれつき消化器系の疾患があり,頻繁に腸閉塞になっていたが,七転八倒して苦しむ私に両親は「気のせいだ」と言うだけだった。具合が悪くなるといつも,父方の祖母が嘔吐して泣き叫ぶ私を背負ってバス停や駅まで走り,病院へ連れて行ってくれた。祖母がいなければ私は幼児期に命を落としていたと思う。そして私は子どもの頃から注射や点滴なんて慣れっこだった。大昔のこと田舎のことでもあって,病院の職員の人達も顔見知りで祖母も一緒だったので,保険証などの提示も特にしないまま処置を受けていた。

小学生になってからは,自分一人で病院へ行った。祖母には祖母でしなければならない仕事がたくさんあったから,自分で行こうと思ったのだ。

流石にその頃になると世の中でも保険証を受診時に提示する流れになっていたので,具合が悪いと自分で判断し,父親に頼んで保険証を貸してもらい(当時の保険証は被扶養家族は扶養者の保険証に名前が書かれていた紙だった),母に頼んで受診料と交通費その他諸々に必要なお金をもらって,一人で列車に乗って一駅の病院へ行った。その間腹はずっと痛いし吐きそうだったが我慢した。

小学低学年からずっとそんな状態だった。

私は手術を受けたかったのだが,母が「絶対にだめ」と反対していたので,未成年のうちは手術を受けられなかった。成人し,自分で働いて得たお金で手術を受けた。

本当は,新生児の段階でわかって手術を受けるのが一般的な病気だった。ヒルシュスプルング病と言う。だが母も父もあまり私の健康状態に興味はなかったのだ。

ネグレクトに近い状況だった。

ACのことや家族のことを書いて行くと非常に長くなる。なので,一つの例として,こういう状態はACなのだ,ということだけ書いてみた。

ACの子どもが大人になってもACのままであれば,放っておくと親から子へ子からその子へと延々と続いてしまうものなので,どこかでこのループが断ち切られると良い。私は,ACの症状で数年心療内科に通い,自助グループワークに参加した。

その心療内科で「あなたにはADHDがあると思いますよ。」と告げられたのだ。そして20年以上経ってから引っ越した先の心療内科でADHDとASDの診断を受けた。

心の病気や障害は,一人で抱え込むより第三者の専門家に相談する方が良いと思う。自分だけどうしてこうなるの?自分がいけないの? と一人で悩むよりも客観的に原因がわかれば対処法も見えてくるから。

ただし,私の姉がかつて受診していた精神科では,患者が「これこれの薬をこれだけください」と言うとそのまま処方し,更に患者の症状に関係ない薬まで大量に処方していた。病院内薬局であったため薬剤師との相談もなかった。問題を感じる。

心療内科でもどんな病院でも,理性的に患者の状況を見て丁寧に解説してくれて不必要な薬は出さない(必要なら出す)所が良い。そしてこちらの話を遮らずに聞いてくれること。

心療内科の診察時間は大体一人20分程度。これ以上ダラダラ喋っていても愚痴の垂れ流しになってしまうから。この時間内に自分の状態を言語化して医師に伝え,医師からの説明や助言を受け,治療について話し合って決める。これは20年前に初めて心療内科で説明されたこと。今通院しているクリニックでも同じである。

感情が溢れてしまって肝心の症状を伝えられないといけないし,本人が自分を客観視して自分の症状を適切な言葉で表現すること,そのために最適な時間が20分なのだそうだ。時間の制限があることで,自分の言葉を吟味することもできる,と言う意味合いもあるそうだ。

自分の伝えたいことは,その都度一言メモなどしておくとまとめやすい。私はメモを失くすかもしれないので携帯のメモ機能を使っている。後で文書としてコピーペーストできる。

ACで辛い人はたくさんいるのだろう,と思いつつ経験談を書いてみた。

散歩の力

鬱病も適応障害も,家の外に出ることが難しいものだ。だが,この外に出ることは鬱病や適応障害のリハビリテーションのようなものなのだそうだ。

それに外との関わりが切れてしまったら生活が成り立たなくなってしまう。必要最低限だけ外と関わるところから,少しずつ範囲を広げていけると良いのかもしれない。

家の中にいると気持ちは少し落ち着いているが,ソファで毛布にくるまったまま,床にうずくまってダンゴムシのように丸くなっているままでは,体にも心にも良くないことはわかっている。わかっているのだが体は動かない。力が全く入らない。

階段の昇り降りができなくなって,2階にある寝室に行けなくなった。今は1階のリビングにあるソファで寝ている。階段を昇る時には手をついて四つ這い。降りる時には,四つ這いで後ろ向きに降りるか,両手で支えお尻をついてズルッズルッと滑るようにして降りる。

家の外に行けば段差もあるし坂もある。

人もいる。車もある。情報が頭の中に押し寄せてくる。

外に出るのは怖いし歩けるかどうか心配になる。

そんな恐怖に似た行為が,柴犬ナナの散歩のおかげで可能になる。

ナナが散歩に行きたそうな様子で寄ってくると,一緒に歩けないことが申し訳なくなる。ナナはもう12歳。あとどれだけ一緒に歩けるのかわからない。今しかないから,一緒に歩きたい。

夫がナナの散歩に行ってくれる時は,夫はナナの排泄の始末ができないから、私がナナを庭で走らせトイレに行きたい様子が見えたところでトイレに行かせて排泄させる。ナナが庭に出るだけでも,外に触れることになる。庭のクヌギの木に集まる鳥の声やセミの声を聞き,風の音を聞く。家の外を恐れていたはずなのに,いつの間にかリラックスしている。

ナナに引きずられるようにして歩いていると,人や車や多すぎる情報は恐ろしいけれど,それでも並木の葉ずれの音や木々や電線にとまる鳥の声が嬉しくなる。草の間から虫の声がすると季節のうつり変わりを感じる。動かなかった足がゆっくり前に出る。

動き出さなければ動かないままだ。

今はまだ一人で外を歩くのが恐ろしい。ナナがいるからなんとか動ける。ナナと一緒の時間を大切にしたい。ナナは忍耐強く私を支えてくれる。

障害のある人のメンタルを支えるセラピーアニマルという存在もある。動物と一緒にいることで周囲に対する恐怖が軽減する。ナナは私の家族でセラピストでもある。

人によって外に出るためのきっかけや力の源は違うのだろうけれど,私のパワーはナナに与えられている。

自立支援(精神科)のための医療費助成制度

昨日,自立支援受給証の更新手続きに行った。正式名称は「自立支援 医療費自己負担額上限管理票」という。

これがあるおかげで月に2〜3回の心療内科への通院や,必要に応じた検査を受けることができている。なかったら,生活への負担が大き過ぎてとてもではないが通院できない。もし自立支援がなかったら,診察料や処方料や投薬料で1回につき6〜7千円かかってしまう。特に検査費用は高額なので,検査まで行ったら1度に1万円は軽く超えてしまうのでとても助かる。

30年以上頑張って働いて,独身時代が長かったし結婚しても子どもを亡くしてしまったので,税金も年金も健康保険も普通の人達より倍ぐらい払ってきたことを言い訳にして(扶養家族がいないと税金や年金や健康保険は扶養家族がいる人の2倍かそれ以上ぐらいになる)「ごめんなさい」と思いつつ社会福祉のお世話になることにした。

この支援制度を使うと,医療費負担が一般的な3割ではなく1割になる。その1割負担で支払っていって1ヶ月の合計が1万円までが支援対象になる(今年度から改訂。以前は2万円だった)。1万円を超えると3割負担になる。支援の上限は収入や職業の有無などによって変わってくるらしい(関係ないことは詳しくは聞けない)。私は職場に籍だけは残っている,休職という形である。

私の場合の支援受給対象の疾患は「うつ病」「適応障害」になっている。食事ができない,動けない,外に出られない,眠れない,などなどの症状がある。症状は人さまざまだろうが,心の病気や発達障害は外から見てもわからないので,なかなか苦しさがわかってもらえない面はある。

外に出られないという症状ならばわかるだろうが,眠れないとか食べられないとか家の中では這いずって移動しているとかは,家族でないとわからない。仕事をしていた時は職場でだけ(昼だけ)他の人と同じものを食べていたが,昼休みに嘔吐して食べ物にされた動物や植物に申し訳なくなることもあった。

「自立支援医療費自己負担額上限管理(自立支援と略したい長いから)」の対象となるのは市町村によって基準が変わることもあるが,ほとんどのところで「うつ病」「てんかん」「統合失調症」「双極性障害(躁鬱病と呼ばれている)」は認められている。それ以外も「などなど」のくくりで認められることがある。

私がこの自立支援制度を使い始めたのは2年前で,本来は1年ごとに更新手続きが必要なのだが,昨年はコロナウィルス感染拡大予防のために公的機関でも間引き業務(というのか?)が行われていて,自動的に更新されることになったのだ。なので今年が初めての更新になる。来年からどうなるかは,まだコロナが蔓延しているのでわからない。

自立支援の申請に必要だったのは,まず市の書式の診断書を医師に書いてもらってから,市の書式の申請書と(課税納税状況を調べていいですかという)同意書,自分の印鑑と健康保険証とマイナンバーのわかるもの(申請書にマイナンバーを書くところがあるから)。

クリニックに通い始めた頃はまだ仕事をしていたので気にならなかったが,収入がなくなれば通院はできないのだ,ということにかなり後になってから気がついた。通院始めの頃は,夫が大怪我をして手術入院したり母が末期癌で入院したりで支出も多かったので自分のことは後回しにしていた。当時は支出に関係なかったが,姉に自傷の傾向があり何度も救急搬送されていたので精神的にいっぱいいっぱいだった。そして極め付けは台風が実家を洪水で流して壊した。

頭も体もいっぱいいっぱいの時,医師から「仕事を続けていると自分の命がもっともっと削れますよ」と言われ,クリニックの受付の方から自立支援制度の案内プリントをもらって「休んでいいのかな。」と思いはじめた。それでもその後もしばらくは仕事を続けていたのだが,ついに自分がどこで何をしているのかわからなくなった。

私にはADHDがあるので,物事の順番づけが難しい。まず社会的な仕事は最初にやらなくちゃとは思う。次に何をどんな順番でするかがわからない。仕事,親の病気,姉の心の病気,夫の怪我,全員が入院していること,台風で被災して壊れた実家をどうにかしないと・・・と考えていたら頭が動くのを拒否した。

自分が壊れる前に自分が自分を助けてやらなくてはいけないと,今なら思う。家族が皆倒れて家も倒れて,それでも私は誰にも「疲れた」ということができなかった。仕事ではいつも笑顔で元気いっぱいなふりをしていた。

自分が助けないといけない,誰も自分を助けられないのだ,と思う。だから,自立支援制度を使ってでもなんでも自分に必要なケアをしなければいけない時があるとも思う。そうでなければ,たとえば,車を運転していていきなり手を離して遠くを見てしまうかもしれない,電車が入ってくる時にホームから足を踏み出してしまうかもしれない。誰にでも他人に察してもらうことを待つより,自分が動けるうちに自分を助けて欲しいと思うのだ。

猫の首輪

以前にも書いたがうちのニャンコ達は首輪をしている。猫首輪のことを少し詳しく書いてみる。

ニャンコ首輪には,それぞれのの名前と私の名前と連絡先がわかるような札が付いている。それはどこのどんな首輪でもデフォルトだと思う。また猫に限った話ではなく,犬の首輪でも同様だ。

今使っている猫首輪は,縮緬(縮緬)の丸い紐で作られたもの。前にもちょっと書いたが「ぽぽねこ」というネットショップで購入したもの。

「ぽぽねこ」さんでは,猫関連の製品を扱っている。猫の術後やアレルギー性皮膚炎などで体を舐めないように注意する場合のエリザベス・カラーだと食事やトイレが大変なので,それに代わるエリザベス・ウェア(全身ウェア)なども販売している。うちのピーチ姫には少しサイズが大きいので,彼女は別のショップの製品を使っているが,他のニャンコのサイズだと「ぽぽねこ」さんのウェアがちょうど良い。

縮緬丸紐の首輪の良いところは,毛並みに首輪の癖がつかないこと。とても軽いので老齢の猫でも首への負担が少ないこと。こすれて地肌が見えてくることがないこと。

https://www.poponeko.jp/?gclid=EAIaIQobChMIqoKYz7ay8gIVTTVyCh3VcArlEAAYASAAEgK3l_D_BwE

シムシム(11歳)の後ろ姿 
首輪の色は紫

前は革製に真鍮のプレートを嵌め込んだ首輪をしていた。その首輪もとても気に入っていた。だが古くなったのと,シムシム,フルフル,バルバル,キルファの4匹が10歳以上になったこともあり,真鍮のプレートと金具付きではないものにしてみた。

https://www.kubiwan.com

そちらは「サクラ犬具」という主に犬用の製品を手作りしている工房の物。猫首輪も作っている。真鍮のプレートと金具と言っても,首輪自体は軽く華奢な仕上がりになっている。例えて言うとブレスレットのような感じ。

だが年をとったからか少し毛の量や生え替わりの速度も落ちてきたので,より軽い首輪にしてみたのだ。

ちなみに柴ワンコのナナは,「サクラ犬具」さんの首輪を使っている。

犬の首輪は当然として,どうして猫の首輪にもこだわるか,というと,昔実家で飼っていた猫が行方不明になってしまったから。

実家では私が生まれる前からたくさん生き物を飼っていて,犬や猫も何世代もいたわけだが,最後が悲しすぎる子達がいて,その原因はやはり飼い主であった私と家族の無知が大きかったと思うので。

犬のフィラリアとかウィルス感染症とか,猫の逸走とか・・・・。私が子どもだったこともあるが,私の両親も全然わかっていなかった。

猫のジムニーが逸走して行方不明になってしまったのは,私が当時仕事で別の町に住んでいて,母と姉が下痢をしたジムニーをキャリーに入れず抱っこした状態で動物病院に連れて行ったため,入口で犬に出会ってびっくりしたジムニーが逸走したから。

私は猫はキャリーで運ぶようにしていて,実家にはキャリーをちゃんと置いていたのだ。だが,私がアパートにいる間に,両親がキャリーを虫カゴ代わりにして親戚の子どもに渡してしまっていたのだ。私の猫用キャリーだったのに。

ジムニーが行方不明になっても,母も姉も私が怒るだろうからと私に電話も何もしてこなかった。実家に帰った時,実家に預けていたジムニーがいつものように私を出迎えに玄関に来ないことで両親も姉も隠せなくなって本当のことを話した。

いなくなった2日後に事態を知った私は,動物病院付近を雨の中歩き回って,通りがかる人達や商店の人に尋ねて回った。だがジムニーは見つからなかった。

もし両親と姉がジムニーがいなくなってすぐに電話してくれていたら,それはちょうど仕事の休みを取りやすい時期だったのだから,私はすぐに駆けつけただろう。でも彼らは「自分達が猫キャリーを他人にやってしまったから」「いつもキャリーの話をされているのに抱っこして病院へ行ったから」「きっと怒るから」と問題を隠していた。もともと彼らは人間として問題のある人達だったがそれは別の話だ。私は祖母のことは信用していたが,両親がキャリーを勝手に親戚の子供にやるとは私も祖母も考えもしなかった。

それはさておき,もし猫首輪をしていたら,せめて見つけた人が知らせてくれたかもしれない。そう思う。猫に首輪をつけることはほとんどなかった時代だが,それ以来「猫を飼うなら猫にも首輪をつける」と心に決めた。

猫の首輪というのは,犬の首輪とは構造が違う。犬用首輪を猫に使うと危険である。

猫は3次元で移動するので,ジャンプした時に何かに引っかかってしまうこともある。猫用首輪は何かに引っ掛かったらバックルが外れるようになっている。セイフティバックルである。犬用首輪にはセイフティバックルはない。外れない代わり首輪が何かに引っかかったら首がしまって窒息死してしまう。しかし,セイフティバックルが外れたら首輪はその場でなくなってしまう。どうしようか悩んでいた。

「サクラ犬具」さんの猫用首輪を買った時,セイフティバックル(すぐ外れるバックル)の他にシリコンゴムのベルトが付いていた。これがあると,引っかかった時にバックルは外れるが首から落ちないので,首輪がだらっと垂れた状態になる。

そのシリコンゴムからヒントをもらって,「ぽぽねこ」さんの首輪にもゴム(よくある手芸用のというかパンツのゴムというか)をつけてみた。これがうまくいっている。暴れ回ってバックルが外れてもゴムで首にぶら下がる。ゴムだから伸びるので,引っかかった時に首はしまらない。

今でも猫達犬達に申し訳ないと思う。無知ゆえに彼らと別れなければならなかったことが辛い。だから,自分の意識を変えて知識を得て行けたらと思う。だが,失ったバディはもう帰らない。とても辛い。その気持ちの繰り返しになる。

せめて,首輪と名札,せめて自分にできることをしたいと思う。

カサンドラ症候群にならないために めげそうだ

ASDがあることはわかっているのだが,本人が頑として認めない,そして周り特に身内を振り回す私の姉。両親もなくなった今,彼女の身内といえば私である。

数日前,夫がアラブ料理の定番の一つファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)を作ってくれた。しかし,今の私は2日に一度レトルトのカレーを温めもせずに袋から食べているか,プレーンヨーグルト1パックを食べるか,丼山盛りの茹でたてスパゲッティにオリーブオイルをからめたものを食べるような状態で,食べたい気持ちはあるのだが,どうしても食べられなかった。

夫は「じゃあ,冷凍しておくね。後でフライしてあげるから食べようね。」とその日はそこまでだった。

その次の日「ついでだから週末にお姉さんの所へお見舞いに行こう。保冷バッグで冷凍したファラフェルを持っていくから,そこで揚げたてのファラフェルをみんなで食べよう。」とナイスアイディア!みたいな感じで夫は言ってきた。それもいいかもしれないね,と同意して「じゃあ週末行こう。」と私も応えた。

でも,天気が悪すぎた。今日家の周りも実家付近も大雨で強風である。こんな日に高速道路を運転していく気にはならない。よく使う高速道路の状態はよく知っているが,何箇所かは周りに山も何もなく,橋のようになっている吹きさらしの強風に煽られやすい道,夫に運転させるのも心配だった。

夫は朝早くから「さあ出かけるぞ」と身構えていたが,私は夫を説得して(天気と道路状況など色々説明して)今日は行かないことにした。

姉にその旨を電話すると「お前は来なくていいけど,ファラフェルは食べたかった。」と言われた。

お前は来なくていい。お前には会わなくていい。でもお前の旦那は来てもいいよ。料理がうまいし,話し方が優しいから。お前はきついからいや。姉の言い分はだいたいそんな内容。

それだけで電話は終わるはずだったのだが,その後姉はいかに私が彼女に対して優しくないかを延々と語り始めた。「ワタシはぁ,子どもの頃にちゃんと子どもとして接してもらっていないから,子どものように接してくれないとダメ。」などと最近仕入れた知識を振りかざしてくる。

「子ども時代がなかった」というのは,姉だけでなく私も同じだ。夫も同じだ。

姉と夫は自己肯定感がとても低い。夫にはなんとか場を明るくしようという私の意図を汲んでくれる面があるのだが,姉にはそれが全然ない。

姉とのコミュニケーションは難しい。というか成立しない。一方通行で姉からだけ情報が発せられる。そのくせ彼女は「ワタシはぁ弱いからぁ,お前は強いからぁ一方的にワタシをぉ傷つけるからぁ怖い。」と言う。「こんなに小さな子どもみたいな自分をいじめないで」とでも言うように。

誰にも言えることではない。姉は旧帝大で博士号を取った秀才だ。私が何を言っても信じてはもらえない「まさかねぇ」でおしまいだろう。

姉と話していると苦しくてしょうがない。一方的に「お前が悪い」「お前がいじめる」「お前が怖い」「お前ばかり周りに愛される(愛されているわけではないと思う)」と言われ続ける。それから姉の好きなジャニーズの話とか母のつまらない内容の蔵書の話とかを,延々と続けられる。

本当は相手をしてはいけないのだ。まともに相手をしたら私が姉に潰されてしまう。姉の必要なものが何なのか,何とか欲しいものや必要なものや状態を揃えてやろうと思っても,決してその私の行為が評価されることはない。何をしてもスルーだ。

まるで靴屋のシューフィッターさんのようだ。「お客様,こちらはいかがですか?」「お気に召しませんか?」「ではこちらはいかがですか? これもダメですか?」「では・・・・」そんなことの繰り返しだ。私が跪いている靴屋さんで姉がお客様だ。相手は遠くを見て勝手なことを言うばかり。

姉がASDなのは既に診断されていることだが,姉は私の前で怒って泣き喚いていた。今は少し落ち着いているがまだ認めてはいない。ACであることは本人も知っている。ACであるのは私も同じなのに,それは認めない。「可哀想なワタシ」「ワタシを傷つける存在のお前」そう決め付けている。ACである原因は親なのだ。それについては,長いので後に書こうと思う。

ただ今日は辛い。叫びたいくらいイライラしている。姉と話すたびにどんよりと曇った気持ちになる。ただの連絡で済むはずだった電話でこんなに苦しい思いをさせられるなんてあんまりだと思う。 

夫は私が姉のためにどれだけ苦しいか知らない。彼にとって姉というのは尊敬すべき存在なので(彼のお姉さんが良い人なので),気付かない。私の姉も善人ではある。だが本当に善人かな?と今日は感じてしまった。良い人ではある。でも善人かな?

永住権とかビザは大切ですね,という話

前にも書いたのだが,うちの夫は外国人で,さらに生まれ育ったのは自分の国ではないと言う難民である。

日本で難民になったのではない。

生まれた時からずっと難民キャンプで育ったのだ。親や祖父母の代から国を追われて行き着いた外国でずっと暮らしてきた。その国レバノンでは,彼らのような難民は国連が借り上げた土地にある難民キャンプのエリアで生活し,学校も商店街も全部難民キャンプの中にあって,大学に行く場合は難民キャンプの外に出るが大抵仕事をするのも難民キャンプの中である。

普通のレバノン人と同じように,難民キャンプの外で仕事をすることもあまりできない。専門学校や大学への入学が制限されているので,資格の必要な仕事に就けないのだ。医学部や歯学部など将来経済的に豊かになりそうな学部への入学は許されない。なので,医者や歯科医になりたい人は何とかしてレバノン以外の国へ留学するしかない。まず,お金がないので諦めることが多い。

今はパレスチナ自治政府というのができたから国があるだろうと誤解されているが,あれはガザやヨルダン川西岸といった極々限られた地域の人のために仕事するだけで,外国で難民になっている人間には何もしてくれない。

夫は,レバノンで少しでもマシな仕事に就くためには英語が必要だ,と考えて,学校の授業や映画やテレビから英語を学習し,今ではネイティブの英語話者から「流暢」と言われるぐらいに話せる。そして,その英語があったおかげで,私は夫と意思疎通ができた。ついでに私が少しアラビア語の単語を知っていたのもあるが。

日本に来るために,アラビア語の書類を英語に訳してさらに日本語に訳して,3ヶ国語の書類をどっさり入国管理局に提出した。

何ヶ月かかかってビザをもらって,日本に初めてやって来てから20年近く経つ。夫は日本が結構好きである。そして,「日本では人間として扱ってもらえる。」と言う。

夫は難民の特別なパスポートを使っている。実際は正式なパスポートではないがパスポートとしてレバノンから発行されている。そのパスポートの代替品には誕生日が記載されていない。誕生年しかないのだ。来日当初はそのためにいろいろな不都合があった。運転免許証を日本で取れないとか,帰省する時に空港のチェックインカウンターで足止めされるとか。

一番辛かったのは運転免許証が取れないため,常にレバノンの運転免許証と国際免許証を持っていなければいけなかったこと。しかも1年に1回更新するためにレバノンへ戻らなければいけない。

あまりに何度も日本とレバノンを往復するので,航空運賃も辛い出費だったし,ビザの更新のたびに「日本での滞在が短い」と言うこと(だけではないが)で1年間しか有効でないビザになった。毎年毎年私が書類の束を揃えて「なぜ日本にいるのが短いか」と言う理由(免許だけではないのだが)を長々と文書にして,夫と一緒に入国管理局に行かなければならなかった。どうして一緒かというと,今でこそ入国管理局の支所に英語ができる人がいるけれど,以前は英語のできる人がいないことが多かったから,こみ入った内容になると夫の日本語力では難しかったから(日本人でさえ難しい単語が飛び出してくるのだ)。

それでも夫は「日本の入国管理局の人は親切だよ。レバノンの移民局ではこんな風に扱ってもらえないよ。」と言う。レバノンでは移民管理が軍の下にあるので,いつもピリピリしているのだ。レバノンでは外国人である夫も,ひどい思いをしたことが度々ある。

私たち夫婦は苦労してビザをもらっている。夫がレバノンで生まれ育ったパレスチナ難民なので。でもそのビザのおかげで夫は合法的に仕事ができる。

政府がパレスチナを便宜上国と認めてくれたので今では在留カードの国籍もパレスチナになったし,在留カードを根拠にしてパスポートに生年月日を正しく記載してもらえた。そのおかげで日本の運転免許を取得することもできた。実技試験で1度落ちたので教習所の「国際運転免許書替教習」と言うコースを受けて練習した。マニュアル車OKの免許である。この免許があったことも仕事につながった。それまではアルバイト的な非定期の仕事ばかりだったから。

だからどうしても考える。ビザのチカラというのはすごい。ビザがあるから,入国管理局でもちゃんと丁寧に対応してもらえるのだと思う。就労できて免許が取れて休日には趣味の料理ができる。

ビザがなかったら,そこで逮捕され,入国管理局収容所か入管内の留置場に入れられてしまう。

毎年帰省していたから今はまだ永住権がもらえていないが,今は永住権を切望している。毎年書類を集めるためにどれだけの労力が必要か,というのもあるが,何より人としての権利を得られることなのだ。

最近何でもかんでも「難民」という単語を使う風潮があるけれど(「帰宅難民」とか「買い物難民」とか),本当の難民がどういうものか知らないから安易に使っているのだろう。とても腹立たしく悔しいことだ。

また,入国管理局の収容所で亡くなる人のニュースも聞く。先日からスリランカの女性のニュースが多い。いたましい。

彼女は不法滞在を認めるから帰国させて欲しいと入国管理局に出頭したのに,支援団体の日本人達(私が読んだのは20歳の女子大生の感情的なセリフだった)にそそのかされて日本に留まって難民申請をしてしまった。私は,この支援団体があまりにも無知で無責任だと思っている。

でも覆水盆に返らず。亡くなった方は誰かが怒っても帰ってこない。それに実際収容所の職員も,ほとんどスタンフォード実験のような状態でひどかったらしい。亡くなった方が気の毒だ。おかしな日本人ばかりに出会ってしまって,まともな日本人に出会えなかったのか。

日本で難民になることは不可能とは言わないがかなり困難だ。日本で難民になることなど考えない方が良いと思う。むしろ正規のルートで日本に来る方が良い。難民申請するなら日本に来た最初の段階で申請すべきだ。不法滞在や不法就労などしてからではなく。

入国管理局だって,事務の早さはすごいと思う。レバノンで1〜3年,或いはもう永久に無理みたいなことを半年ぐらいでやっている。

日本の悪いところはいっぱいあると思うけれど,良いところもいっぱいあるのだ。

坂本九の「上を向いて歩こう」

今日は,日本人でたった一人だけの,ビルボード1位の歌手である坂本九と,1985年8月12日に日航機事故で亡くなった方々の命日だ。

私はあの日,英語スクールの帰りにいつもより遠回りたり寄り道したりしてしまったので,薄暗くなってから山手線に乗った。それもいつもだったら帰りは山手線の外回りに乗るのに,その日は何故か内回りに乗ったのだ。羽田の近くになった時,空にたくさんのライトが見えた。「何だろう?ヘリコプターかな?どうしてあんなにたくさん飛んでいるんだろう?」と思った。当時世話になっていた親戚の家に帰って,ニュースを見て驚いたのだ。

坂本九さんは本名で搭乗していたので,アナウンサーが「坂本九さんの本名と同じ名前の犠牲者」と伝えていた。

私はもちろん坂本九さんの「上を向いて歩こう」は子どもの頃から知っていて,自分でもよく歌っていた。そして,アメリカの Taste of Honey (テイストオブハニー)と言うアーティストの”Sukiyaki”もよく聞いていた。「上を向いて歩こう」は外国でもよく知られた曲なのだ。

亡くなって10年ぐらいの時にドキュメンタリーを見て,どうして外国では”Sukiyaki”と言うのか(アメリカから来たプロデューサーのためだそうだ)とか,世界中何か国語ものヴァージョンで”Sukiyaki”が歌われていることとかを知った。それまでは「アメリカでは有名だよね」ぐらいの認識だったが,ヨーロッパや南米でも歌われているそうだ。それとアメリカでもTaste of Honey の他に 4PM と言うR&Bのボーカルグループがカバーしていて,そちらもとても良い。私は坂本九さんの本家本元と Tuck & Patty と言うアメリカのデュオのものは携帯に入っているが,Taste of Honey と 4PM はCDを持っている。これだけでもカバーが3曲もある。

日本人の歌手の歌で,ここまで長い間,世界中で愛され歌われてきた歌は他にいないと思う。Kyu Sakamoto も特別だと思う。

あの日,500人以上の方が命を落とされた。子どもさん達の写真がテレビに出るのが辛かった。

低気圧時の体調不良 ADHD・ASDの私の対策 

今日は曇っていて湿度が高くジメジメしている。だが,いつもの低気圧の日のような体調不良はあまり出ていない。ゆっくり眠れたからかもしれない。いや低気圧がまだそんなにひどくないのかな?

ゆっくり眠ることは体調不良にはとても効果がある。それは誰でも知っていることだと思うけれど,なかなか眠れないのが現代社会の構造なのだろう。

家にずっといる生活になって,1年近くは眠ることができなかった。薬も飲んだけれど,落ち着いてベッドにいることができない性格なので,薬を飲んでから動き始めてしまうこともあり,動いている間にちょうど「眠りに入る」薬の効果が出ている時に興奮状態で眠れないまま朝,ということがたびたびあった。

ADHDがある場合「落ち着いて」「じっとして」というのは本当に大変。いつもワチャワチャ動き出してしまう。体全体が動かなくても目がキョロキョロしたり手が動いたり体を揺らしたり。

なので,睡眠薬だけでなく精神安定剤(私の場合はデパス)を使う必要がある。それに,子どもの頃から眠っている時に全身が緊張して朝になったら余計に強張っている,ということが続いているので,緊張をほぐすためにも安定剤が必要。

かかりつけのクリニックでは,デパスには依存性があるから減らすように,少なくとも増やさないように,と注意を受けている。睡眠薬を使うようになってから安定剤が増えることはないが,それ以前は「眠りを持続するため」という目的にまで安定剤を使っていたので量が増えてしまい,クリニックで「気をつけて行きましょう」と言われた。それで,眠る前に動き出さないようにするための精神安定剤,眠りを持続するための睡眠薬,という処方になった。

眠れたから今日はさほどではないと言っても,低気圧は体調を崩しやすい。

以前読んだ漢方の本や製薬会社のホームページなどには,低気圧で体に水が溜まる,という記述もあったけれど(製薬会社が漢方も出しているところだったせいか?),漢方はよく「水が溜まる」と言う。

水が溜まるかどうか知らないが,体内の圧力というのはいつもあるわけで,体の外の気圧がその体内圧より下がってしまったら,圧力が低い方に引っ張られるようにして体内の水分や血管のような柔らかい器官が膨れるだろうから,体がむくんだり,血管拡張から頭痛が起こったりする(片頭痛は血管拡張が原因と神経内科の医師に言われたことがある)と思う。体がむくむと力もなかなか入らないし気持ちが悪い。血管が拡張したら頭痛以外の問題も起こるだろう。

大抵の人は「仕事だから」「学校があるから」「部活動だから」と何かしら「〜だから」を根性の土台にして,薬を飲んだり,清涼飲料水などでリフレッシュしたり,頑張っている自分を心で褒めて脳内ドーピングしたりして我慢している。

でも,障害があると頑張りたくても頑張れない理由がある。

一つはすでにたくさん薬を飲んでいること。鎮痛剤との相性が悪い場合は普段から飲んでいる薬を優先することになる。抗うつ剤,精神安定剤,てんかんの薬,等々グレープフルーツを筆頭に柑橘系と組み合わることが厳禁の薬もある。上でも述べたけれども,睡眠が普通にとれないケースもあり(1日中起きているような状態とか),体力的に持たないこともある。

一つは過敏。障害のない人より感覚に過敏がある場合,痛みでもだるさでも倍以上の重さでのしかかってくるようだ。

発達障害のある子どもさんと関わることが多かったが,低気圧が近づくと異様にハイになって走り出し飛び上がり最後に疲れて倒れ込む,泣き出す不機嫌になる,体温が安定しない,呼吸が乱れる,などなどのケースがあった。みんな頑張っているのだが,感覚や神経の過敏さは容赦なく体を中から責め立ててくる。

「頑張れ」「根性がない」と簡単に言うのは,無知のなせる暴力だと思う。同じ天気の下にいても,体や神経の作りが違うのだ。ガラスと鉛は同じ強度ではない。

私は「頑張れ」と言う言葉が子どもの頃から大嫌いだった。どう頑張ればいいのか具体的に言ってくれればまだ良いのだが,漠然としていて方向性も何もなく無責任な言葉だ。ASDの人間には具体的に何をどうするか伝えてくれた方が良い。ADHDの子は一般的な「頑張り」を見せることが難しい。それ以前の行動がコントロールできていないのだから。

なので,低気圧の日に具合が悪い人間に対して「頑張れ」とか「根性」とか,あまり言わないで欲しい。具体的に解決策を示して欲しい。だがそれはその場では無理かもしれないが。

解決策の例1:温かい風呂に入る。自律神経を調整してリラックス効果と体内外の圧の調整ができる。足湯や手湯も良い。

解決策の例2:温かいものを食べる。これも体を温めて自律神経を調整する。(片頭痛にはコーヒーか紅茶を飲みなさい,と神経内科の先生に言われた。それは血管の拡張を抑えるため)

解決策の例3:マッサージ  耳たぶマッサージが効くと知られているけれど,むくみは足や腕が辛いからリンパに沿ってマッサージするといい。

解決策の例4:少し横になる。足を少し高くすると体内の水分の流れが良くなる。

解決策の例5:エアコンで室内の気圧を調整する。

解決策の例6:昼寝。デスクについていてもいい。子どもだったら,床にウレタンマットでも敷いて休み時間にゴロゴロさせてみてはどうか。

時代が変われば全てが変わるもので,数年前までは「運動中に水分なんかとるな」と言われていたし猛暑の中でもランニングとかあったものだが,今ではそれは狂気の沙汰である。

だから時代がかわったのだから,せめて職場に長椅子のある休憩室とかあると良いと思う。それが無理なら絨毯やラグを敷いた部屋を作って休憩時間にゴロゴロできるようにすると良いのではないだろうか。あとデスクについていてもいいから昼寝。もう自分には関係ないんだろうけれど,しんどい中で「頑張って」心身を痛めつけている人達がいるんだろうと考えてしまうのだ。

そんなことをしみじみ考えた体調がまあまあマシな低気圧の日(今日の天気は低気圧自体がそんなにひどくないのだと思うけど)。

猫の皮膚保護ウェア

うちのピーチ姫には,猫のアレルギー性皮膚炎がある。それで先月末にも動物病院でステロイドの注射をしてもらい,今回はじめてアレルギー性皮膚炎に効果があるというプラセンタのサプリメントを購入したのだ。

で,プラセンタのサプリが効くかどうかはまだわからない。様子見というところ。サプリメントの効果が現れるとしたら多分1〜2ヶ月は最低でも続けないといけないと思う。人間でもそうだから。

ピーチ姫のアレルギー性皮膚炎は,大体2ヶ月に1回ぐらいの頻度で現れる。それで2ヶ月に1回はめちゃくちゃ舐めたり噛んだりして「おハゲちゃん」になってしまう。

1度ハゲると毛が生えそろうまで時間がかかるわけだが,やっと毛が生えたと思ったらまたアレルギーでハゲ,というのも困る。

そこで,ピーチ姫にはハゲが気になる時や,「ちょっと舐めすぎじゃない?」という時には「(犬猫用)皮膚保護ウェア」を着せるようにしている。できるだけ彼女にストレスがかからないようにしたいのだが,ピーチ姫の舌は何故か他の子よりザラザラが激しくて,舐めすぎるとすぐハゲてしまうのだ。彼女に舐められると,私でも「あ,イテッ」と感じてしまうくらいなので。

ピーチ姫のウェアは「Full of Vigor」というネットショップで購入した。

https://www.full-of-vigor.jp

皮膚保護ウェアを着たピーチ姫,仲良しのラッキーと取っ組み合いをしても大丈夫

皮膚保護ウェアを着ていると,ザラザラの舌で舐めてもハゲなくて済むのだが,あまりにも舌がザラザラなのでウェアが毛羽立ってしまうのは仕方がない。ピーチ姫用に購入したウェアは,縫い目が外に出ていて皮膚に当たらないのも良いし、素材の通気性と伸縮性も良い(と動物病院の先生にいわれた)。お尻周りはちゃんとトイレに行ける仕様になっているが全身をすっぽり包めるため脱げる心配もあまりない(全くなくはない。ピーチ姫が器用なので)。

うちは子どもがいないのと,私がASD,ADHD,HSP,および適応障害のため非常に外出を苦手とする体質なのでレジャーにも何にもいかない。だからなんとかなっているけれど,ワンコとニャンコには,多分子どもにかかるくらい時間や経費がかかっている。結構大変な時もある。でも彼らがいるから生きていられる自分がある。彼らは私の子どもだから。彼らに感謝しつつ自分がしなければいけないと思うことをしたい。