BTSとColdplayの My Universe コラボMV

コールドプレイのチャンネルで,BTSとコラボした”My Universe”の歌詞ビデオではなくて,ColdplayとBTSが出ている動画が公開された。

「昔々,星々の間では音楽が禁止されていた。サイレンサー(沈黙させるもの)が見張っていて音楽を楽しむものは狩られてしまう。しかし,エイリアン・ラジオのDJがそれに逆らい,異なる惑星の3つのグループ(Cold Play, BTS, エイリアン)をホロバンド(ホログラムのバンド)として団結させた。」というストーリー。エイリアンはCG(特殊メイクもあるのか?)。最後までストーリーがしっかりあるのが素晴らしい。

残念なことに,このMVはLyrics版同様貼り付けられない。なのでYouTubeで頑張って繰り返して見てください,ということなのだろうと思う。

これを見ていると,前にColdplayがリリースした”Higher Power”のMVとも世界観が近いような気がする。

“My Universe”を初めて聞いてから感じていることがある。これをBGMにして,アーシュラKル・グィンが著した,ハイニッシュ・ユニヴァースのシリーズを読んだら気持ちがよかろうな,と。

もちろん全部ではない。好みとしては「辺境の惑星」のエンディングあたりとか,「所有せざる人々」のエンディングあたりで聞きたい。「闇の左手」や「アオサギの目」「世界の合言葉は森」などには合わないかな,と思う。

「辺境の惑星」は,悲しい場面もあれば戦いの場面もあるが,最終的には未来に希望があるような気がするから。

ハイニッシュ・ユニヴァースというのは,ル・グィンが作り上げた遠い未来の宇宙の物語。地球人が移住した星,地球人とほぼ同じ姿あるいは異なる姿の先住民がいる星,等々が宇宙連合的なエクーメンという組織に属していたり「所属してください」とエクーメンから使節を送られたりしている。

未来の宇宙は,ル・グィンが執筆活動をしていた20〜21世紀の世の中で,多くの楽観的な人々によって考えられたような,進歩的で明るいものではない。戦争は相変わらずあり,人種差別があり,富める人々が貧しい人々から搾取する社会があり,と何千年何万年も前から繰り返されてきた人類の歴史そのまま。ル・グィンは,いわゆる現代社会そのままを「宇宙」という範囲に広げて描いている。

ル・グィンはお母さんが高名な文化人類学者だった(岩波書店から著作の翻訳本も出ている)影響から,作品には文化人類学や社会学に通じる面がある。また東アジアの哲学に造詣が深く,特に道教や荘子の思想をよく作品に用いている。

BTSの”Spring Day”という歌のMVに,ル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」からインスパイアされた場面がある。「オメラスから歩み去る人々」は掌編小説だが,同時期に発表された長編「所有せざる人々」と似たところがある。この2編は対になっているというか,双子のような作品だ。

「オメラス」というのは舞台となる場所の名前。ちなみに,ル・グィンが「オメラス」という名前を思いついたのは,彼女が自分の住んでいたオレゴン州ポートランドからドライブをして,同じくオレゴン州のセイレムという街を通った時に,標識を見たのがきっかけだという。Salem, Oregon が車の動きのため salemO に見えたから反対側から読んで「オメラス」になったという。

ついでに,私の知人に,本当にアメリカ合衆国オレゴン州セイレム出身,という人がいる。とても素朴で優しい人である。見せてもらったセイレムの街の写真も「うわ〜のどか」というもので,この街で育つとこうなるのかなぁ,と思ったものである。

BTSのMVや歌の中には「花様年華」という,大作フィクションのストーリーに沿った内容のものがある。”Spring Day"もその中に入るようである。しかし,同時にこの歌はいくつかの独立したメッセージを発信していて,一つはセウォル号沈没事件の犠牲者や遺族への哀悼,一つが「オメラスから歩み去る人々」の「歩み去っていく人のいく道のその先」などである。

「花様年華」は,ル・グィンの「天のろくろ」に似たところがある。「天のろくろ」は荘子の「天じん(漢字を忘れた。吊り下げられたもののことらしい)」を英語に翻訳する際に,若干の誤訳があり「じん」が「ろくろ」になったと高校時代に読んだサンリオ文庫(廃刊)の後書き(翻訳者の脇明子によるものだろうか)にあった。

さらに「花様年華」には”Butterfly"という歌もあり,MVの中にも蝶の絵のカードや蝶が舞い上がるシーンがある。これがまた,荘子による「胡蝶の夢」という話を思い出させる。

BTSのリーダーであるRMは大変な読書家だそうだが(辻仁成作品も好きだそうだ),この調子で行くと,BTSのMVで壮大なハイ・ファンタジーが作られそうな気がする。その作品を見てみたい,本を読むように物語に入り込むように感じてみたい。

ジェームズ・コーデンとBTS

今日のニュースを見ていたら,イギリスのコメディアン・俳優のジェームズ・コーデンがBTSを中傷しているかのようなタイトルの記事があった。

https://www.cosmopolitan.com/jp/k-culture/korean-entertainment/a37748158/army-bts/#

ソースはコスモポリタン紙。だが,読んで言ったら,これはあまりにもひどい言いがかりではないだろうか?と感じてしまった。

コスモポリタンも煽るような見出しであるから,言いがかりを助長していると思うし,こんな誹謗中傷を平気でする人間がファンを名乗るのは,BTSにとってもダメージにしかならないと思うのだ。

ジェームズ・コーデンはイギリスの人で,10年ぐらい前には映画の主演もしたし,私の好きなイギリスの御長寿ドラマ(60年ぐらいやっている)「ドクター・フー」にも数回重要な役で出演しているし,何より今では有名な司会者として番組を持っている。

特に「CARPOOL KARAOKE (カープールカラオケ)」は大人気だ。ポール・マッカートニーと一緒に彼の故郷を訪ねつつ一緒に車の中で歌いまくるとか,ジョナス・ブラザーズとは彼らのキャリアについてシリアスな話をしつつ歌いまくるとか,ミシェル・オバマと二人漫才みたいになりながら歌うとか,多種多彩なゲスト(多種多才というか)が来て,車の中であるのを良いことに大声で歌いまくる,なおかつインタビューする,という楽しい番組だ。

BTSも以前「カープールカラオケ」に出演している。ジェームズが「どうして英語がそんなに話せるのか」と質問すると「友達やテレビから」とRMが答え,ジンが「僕もテレビや友達から英語聞くけど話せないよ〜」と笑っている。ジェームズも一緒にみんなで ”MIC Drop"大合唱もある。

韓国のM NETで毎年開催されるMAMA(Mnet Asia Music Award)で,コロナ問題で有観客ライヴができず,映像とオンラインで進行された2020年度授賞式では,ジェームズ・コーデンがオンラインでプレゼンターを務め,BTSが受賞して嬉しい,と言っていた。

今回コスモポリタン紙が「BTSファンから批判」と煽ってきているのは,ジェームズ・コーデンが先日行われたBTSの国連でのスピーチに関してSNSに書き込んだことで,BTSのファンが「BTSのファンは15歳の女の子だけじゃない」「ジェームズ・コーデンがBTSを貶している」と怒っているというものだ。なんだか「?」である。

ジェームズ・コーデンが言っているのは「今まで国連や国連の活動に興味関心を持たなかった人々が,BTSを通して関心を持ち始めるだろう。」ということだ。批判や貶すというのではなく,彼はむしろBTSを称賛しているのだ。

確かに,ファンの中には多少思考に問題がある人もいるだろうが,それが全てのファンではない。今回,一部で過激でリテラシーのないファンが暴走しているかもしれない。だが,一番の問題は,このコスモポリタン紙のように,あたかも全てのファンがジェームズ・コーデンを非難しているかのように扇情的な記事を出してくるメディアの方である。こんなことでジェームズ・コーデンの番組の視聴率がどうかなるとしたら,大変おかしなことである。その視聴率というのはどの世代のどの人々によるものなのか。

リテラシーは大変重要なものである。日本では,1980年代から学習指導要領というものが大幅に改訂されててしまい,学習内容がバッサリと切り取られ捨てられてしまった。そのため教科書内容も系統性を欠くものがあり,現場の教員の中には子ども達の将来を憂える人もいた。今から10年ほど前に,また少し学習指導要領が変わり,突然学習内容が増えたのだが,当時の児童生徒と教員はとても大変な思いをしただろう。

現在でも,小学校での英語導入やプログラミング導入や増え過ぎた行事などのために,国語の学習内容は30〜40年前の半分ほどになっているので(土曜日が休みになったこともある,スピーチの学習など意見を出す学習が増えたが読み取り学習は減った),リテラシー(読解力)を育てることが難しくなっている。

私の夫の育ったレバノンでも,20年ほど前から小学校で英語を使った授業や英語学習が導入され,ドロップアウトしてしまう子どもが急激に増えた。中東では社会的構造のためでもあるが,小学生でさえ2年連続で全科目及第点を取れない児童は退学になる。なんとか小学校を出ても中学校でかなりの子どもが落第し退学になる。

私はかつて英語を教えていたことがあるのだが,母語による文章理解や抽象概念の理解ができないと,外国語の習得は難しい。日本人の中には「英語は暗記科目」と信じ込んでいる人がいるが,説明されたことが何を意味しているのか理解できなければ,何も理解できないのと同じなのである。だから国語力が必要だ。それは英語に限った話ではない。数学でも理科でも言葉が分からなければ「なんだこれは?」になってしまうのだ。ついでに言えば,英語学習は数学や社会科に通じるところがある。だがそれは別の話。

国語は話せれば良いというものではない。漢字の読み方ができない人が多過ぎて,ついには新しい読み方が定着し,辞書では正しい読み方に新しい読み方が並記されるケースもある。そうなると共通概念を持つことが難しくなる。私はここ30年ほどで変わり果てた岩波書店の辞書,「広辞苑」を見るのがとても悲しい。今時は,アナウンサーでさえ漢字が読めないのだ。なんとも恐ろしい世の中だ。

世界中が「英語学習」や「コンピュータ学習」に偏り,大切なことを忘れてしまって,気づけばリテラシーで障害が現れている。

話が逸れてしまったが,ジェームズ・コーデンは面白い司会者である。また俳優・コメディアン・声優である。イギリス人だから,時々イギリスっぽい皮肉を言ったりイギリス的なブラックジョークを言ったりするが,今回は何もおかしなことは言っていないと思うのだ。

ファンというのは普通の人間だから仕方がないのといえば仕方ない面もあるが,BTSのファンには冷静になってもらいたいものだ(私もBTSのファンではある)。

東京喰種(トーキョーグール)と北原白秋 曼珠沙華で思い出すこと②

しばらく前に曼珠沙華の花のことを書いた。ナナの散歩道にあった曼珠沙華の花が全て萎れ今年の彼岸が過ぎていくことをかんじ。一昨日彼岸も終わり(彼岸の中日は9月23日),もう9月もすぐに終わる。

私の実家周辺では,昔は曼珠沙華は彼岸頃から咲いていたものだが,今では地球温暖化のせいか年々早く咲くようになっている。今住んでいる地域は実家より大分南にあるので,余計に早く枯れてしまったのかもしれない(根は残っているだろうが)。

高校生の時には,通学に使う列車の窓から緋色の毛氈のように一面に広がる,真っ赤な曼珠沙華の群生を見たもので,その様子は小学校の教科書にあった「ごんぎつね」と,中学の時に読んだ北原白秋の「曼珠沙華」をいつも思い起こさせた。

北原白秋の「曼珠沙華(ヒガンバナ)」は童謡の歌詞で,曲は山田耕筰が作ったそうだ。山田耕筰は小学校の音楽の教科書にも出てくるので,今でもその名を知っている人はいると思う。私は初めそれを知らず,「曼珠沙華」は普通の詩だと思っていた。

以下「曼珠沙華(ヒガンバナ)」の引用。

Gonshan,Gonshan 何処[どこ]へゆく
赤い お墓(はか)の曼珠沙華(ひがんばな) 曼珠沙華
けふも[きょうも]手折り[たおり]に来たわいな

Gonshan,Gonshan 何本(なんぼん)か
地には七本 血のやうに[ように] 血のやうに[ように]
丁度 あの児[こ]の年の数(かず)

Gonshan,Gonshan 気をつけな
ひとつ摘(つ)んでも 日は真昼 日は真昼
ひとつあとからまたひらく

Gonshan,Gonshan 何故(なし)泣くろ
何時(いつ)まで取っても 曼珠沙華 曼珠沙華
恐(こは)[こわ]や 赤しや まだ七つ

引用以上。[ ]部分は旧仮名遣いなので付け足した。

「ゴンシャン」というのは,北原白秋が育った地域の言葉で「お嬢さん」「良家の令嬢」などを表す。「お嬢さん,お嬢さん,どこへいく?」と聞いた時には,マザーグースの歌を思い出した。白秋もマザーグースの翻訳をしていて「まざあぐうす」という詩集がある。だから,少し意識したのかもしれない。

私の中では「血には七本血のように」の部分が強烈であった。厨二病を拗らせていた頃だったのもある。

仕事をしていた頃のある時,アニメの専門チャンネルを見ていた私は,たまたま見ようと思っていた番組の前か後かにあった「トーキョーグール」を何となく見ていた。ちょうどシーズン1の最終回だった。

今になると,あのアニメのシーズン1最終回の中には色々おかしいところもあるのだが(原作通りにすればよかったのに)。原作にもあるシーンで,拷問にあっている主人公の金木研(この金木は金木犀に引っ掛けている)が頭の中にイメージしている理想の女性であるリゼと会話する。このリゼは実際にも金木のイメージの中でも,かなりの曲者である。

金木の体の中にはリゼの体の一部が移植され,そのため金木がグール(昔話では人食い鬼のこと)になった。でも金木は元々が心優しい文学青年なので,人を喰らうことなどできない。グールのことですら食べられない。自分は人間だ,とずっとグールであることを否定している。

頭の中で,金木はリゼと問答しつつ,金木の子どもの頃の記憶をリゼとともにたどっていく。その記憶の中では,金木の理想の女性の究極の姿だった母親が,白いカーネーションで象徴されている。しかし,母は金木にとって理想で,だから金木はリゼのような女らしく落ち着いた(しとやかな)女性が好きだったのに,実は母親に対して複雑な感情を抱きつつそれを隠していたこと,本当は母親に言いたかったこと,等々に気づいた金木は,感情を爆発させる。

爆発した金木の感情と,頭の中のリゼが彼にじわじわと問いかけ深層心理に気づかせる過程を象徴するのが深紅の曼珠沙華である。

金木が「ぼくはグールだ。」と自分の今の姿を受け入れるとき,亡き母を象徴する白いカーネーションがどんどん曼珠沙華に変化していく。

その時みた「トーキョーグール」のアニメの色は,あまりにも鮮やかだった。その瞬間「作者は福岡県か佐賀県出身かな?」と頭に浮かんだ。「それとも北原白秋が好きなのかな?」と。

どうしても鮮やかな曼珠沙華と「トーキョーグール」の関係が知りたくなって,コミックを全巻(古本含む)揃えた。「トーキョーグール」だけでなく「東京喰種:re」も揃え,一気に30冊読んだ。読み応えがあった。小説版も読んだ。そして,アニメが色々省略しているのでおかしかった部分は,コミックと小説の一気読みで納得できた。その後画集も買って細かい設定や,作者の解説も読んだ。

アニメは色がきれいで(漫画は白黒だから曼珠沙華が真っ黒)声優も好きだったのだが,やはりストーリーを味わうためには原作を読まないといけない。アニメはかなり端折っている上に,シーズン2は原作に追いついてしまったためにアニメ完全オリジナルストーリーになってしまい,シーズン3に繋がらなくなってしまった,というとんでもないことになっている。シーズン3も省略し過ぎて何が何だかわからなくなったところが多数ある。一体全体アニメの現場で何が起こった?という,もはや私の中では大惨事。

「東京喰種」から「東京喰種:re」へつながる重要な鍵でもあるエピソードでも北原白秋は出てくる。「老いしアイヌの歌」の一部である。アニメでは完全にカットされている。

(以下引用)

彼アイヌ,眉毛かがやき,白き髯胸にかき垂り,家屋(チセ)の外(と)に萱畳敷き,さやさやと敷き,厳かしき(いつかしき)アツシシ,マキリ持ち,研ぎ,あぐらゐ[あぐらい],ふかぶかとその眼凝れり(これり)。

彼アイヌ,蝦夷島(アイヌモシリ)の神,古伝神(オイナカムイ),オキクルミの裔(すゑ)[すえ]。

ほろびゆく生ける屍(ライグル)。夏の日を,白き日射を,うなぶし,ただに息のみにけり。

(以上引用)

この白秋の詩の中には「生ける屍(ライグル)」が出てくるが,これに作者は人の姿で人でないグールを重ねているのではないかと思う。

私にとっては,白秋の文体も馴染みがあるが,祖父母がかつて北海道で仕事をしていたので(私の祖父は日本だけでなく仕事をして回っていた),その時住んでいた地域を訪ねてアイヌの文化に興味があったので「アツシシ」とか「アイヌモシリ」とかは懐かしい響きがあった。「オキクルミ」は子どもの頃に読んだ,佐藤さとる作「コロボックルの物語」にもあったので知っていた。

またトーキョーグールの主人公である金木研(カネキケン)は,大学では文学部国文科専攻の学生という設定なので「これは北原白秋を研究するんだな。」と解釈した。

作者が福岡の人かな?と思ったのは,今時北原白秋がすんなり出てくる人って,同じ地元なのではなかろうか,と考えたから。コミックスを読んでいくと,福岡や九州北部の言葉がいくつか出てくる。というか,わからない言葉があったので調べたら福岡の言葉だった。たとえば鶏肉を「かしわ」と呼ぶとか。

そして実際に作者は福岡出身の人だった。

そんなこんなで,最近は曼珠沙華を見たときに思い出すものが,「ごんぎつね」「北原白秋」「緋毛氈」「田舎の駅」「実家周辺」だけでなく「東京喰種トーキョーグール」も加わった。

「トーキョーグール」は,至る所に伏線があるので,普通に本を読むように楽しめる。アニメは色がきれいだっただけにストーリーが訳がわからなくなって残念。アニメの現場が大変というのもあるだろうが(大人の事情もあるだろうが),現場に北原白秋や文学に造詣の深い人がいなかったので,余計でたらめに細切れにされてしまったのだろう。でもアニメから入ると色が頭の中で出てくるから,それはそれで受け入れることにしている(漫画は白黒だから)。

BTSは良いですねと改めて思ったという話

Global Citizen Liveのチャンネルをチェックしていたら,ColdplayだけでなくBTSの動画もアップされていた。

改めて「良いなあ」と思った。ただし,私には背景のソウル市内の映像がグリーンスクリーンに見えてしまう,という問題があるのだが。それは私がASDを持っているからかもしれない。ドラマや映画を見ていても「ここから先はグリーンスクリーンだ。」と思いながら見ている。それはいつものことだ。だから私はマーベルの映画を見られない。見ても変な感じがする。全面にグリーンスクリーンが張り巡らされているように見えるから。

それは置いておく。

私は小学校に入学する前はクラシックばかり聞いていて,特にバロック音楽が好きでバッハやヴィヴァルディがお気に入りだった。モーツァルトやベートーヴェンも聞いたが,実はベートーヴェンはあまり好きではなかった。ヘンデルは好きだったかもしれない。両親がクラシック音楽が好きで家にレコードがあったから。

幼児期にクラシック以外で聞いていたのは,モンキーズをほぼ毎日(テレビ番組があったから),ビートルズを時々(父のラジオから流れてきたのでビートルズ以外もあった)。小学校に上がってすぐに,シカゴの「長い夜」を聞いてすごく気に入った(母の末弟がバンドが好きだった)。

毎日毎日洋楽とクラシックばかり聞いている私を心配したのか,当時父の弟がまだ大学生で教員養成課程にいたのだが,ある日童謡のレコードを買ってきた。ありがたく頂戴したし,ほのぼの聞いたり眺めたりもしていたのだが,やはり洋楽とクラシックが好きだった(滝廉太郎も好きだった)。

小学生になってからはパートリッジ・ファミリー,ジャクソン5(マイケル・ジャクソンがいた)や日本のフィンガー5(ジャクソン5やモンキーズ,パートリッジファミリー等のカバーをしていた),ニール・ヤング,フォーカス(オランダのプログレッシヴロックバンド),ジェフ・ベック,ディープパープル,レッドツェッペリン,ザ・フー,パティ・スミス,クイーン,ジェスロ・タル(マニア向けのブリティッシュロックの大御所)などを聞いていた。特にプログレは大好きだった。

当然だが,学校で話が合う子どもは全くいなかった。一人でいるのに慣れていたので,同じ趣味の子が周りにいなくても,特に困りはしなかった。

そのまま大きくなって,クラシックと洋楽だけでなく各国の民族音楽も聴くようになり,馬頭琴(モンゴルの伝統楽器)やダブキ(アラブの太鼓)など,気に入ればなんでも聞くようになった。

「何でも」の中には日本の歌も入ってきた。というか,大人になるまで日本の歌はあまり(フィンガー5以外)聞かなかった。仕事柄若い子らと話す機会が多かったので,ヴィジュアル系やジャニーズ系も聞くようになったのだ。

また仕事柄外国人と話す機会も多かったのだが,私の雑多な音楽の趣味は,外国人の同僚からは絶賛された。ジェスロ・タルやウォーターボーイズを知っている日本人がほとんどいなかったから(ジェスロ・タルは欧米では大人気なのだが)。

その私が,最近K POPにはまっているのが,本当に不思議だ。

ここ数年,抑鬱状態が続き動くことも思うようにいかなかった私が,K POPを聞いてニコニコしているのだ。自分でびっくりした。特に好きなのがBTSなわけだが,初めてDynamite をMTVのUSチャートで見た時に思い出したのが,中学生の時に流行っていたジョン・トラヴォルタ主演の「サタディナイトフィーヴァー」だった。あれは社会現象のようになっていた(その後スターウォーズが現れてしまってかすんでしまったが)。実際BTSのMVには,ジョン・トラヴォルタの決めポーズへのオマージュのようなシーンがある。

Permission to Dance が国連でも撮影されたりビデオチャレンジが世界を駆け巡ったりしているのだが,個人的にはDynamaite と Butter , Run が好きだ(Run は「花様年華」というテーマで制作されたアルバムとその世界観に沿って作られたストーリーの重要な曲で,ル・グィンの世界観に影響されたところとかあって,楽しいダンスには向かないと思う)。

落ち込み,叫びたいのに叫ぶ声も出ない,泣きたいのに涙も出ない,感動のなかった私がちょっと笑顔になれる。それだけでもBTSに感謝したい。

My Universe BTSとコールドプレイ

夕方の散歩の時間に雨が降ってきた。ナナは濡れるのが好きではないが,それ以上に私に気力がなくて結局散歩は見送りとなった。ナナには申し訳ないと思う。

それで寝転んで今日のニュースを見ていたら,防弾少年団(BTS)とイギリスのバンド COLD PLAY(アメリカの女優のグウィネス・パルトロウの元旦那さんのクリス・マーティンがいる)のコラボレーション曲がネット上で発表された,と出ていた。実際にリリースされたのは2日ぐらい前らしいのだが。

タイトルはMy Universe (マイ ユニヴァース)。「キミは僕の宇宙だよ。きみを僕の一番に(念頭に)おきたいんだよ。」という内容。曲自体は「うん,いかにもコールドプレイだな。」という演奏。今オフィシャルサイトで公開されているのは歌詞がアニメーションになっている。

lyric アニメーションMVは貼り付けられなかったけれど,Coldplay X BTS – My Universe (Official Lyric Video) ですぐ出てくるのが嬉しいところだ。

クリス・マーティンとBTSによる録音の様子がドキュメンタリービデオとしてBTSのチャンネルに出ていたので,そちらを貼り付ける。短いけれどこれだけでもメッセージの深さや真面目さは伝わってくると思う。

コールドプレイのチャンネルにも出ていたが,世界中の有名都市で一斉に開かれたGlobal Citizen LIve(有観客もあれば無観客もある)の様子がGlobal Citizen Liveのチャンネルにあったのでそちらも貼り付ける。あとでしみじみと噛みしめながら見てみようと思うから。

コールドプレイの演奏は,私にはものすごく懐かしい1980年代を思い起こさせるような響きがある,と私は思っている。そんなにものすごく好きというのではないが(失礼),とても聞きやすい。

クリス・マーティンの声に「あ,ジョングクだ。」「Vだあ」「あ,SUGAだ。」とBTSメンバーの声が重なって聞こえてくる。コールドプレイの優しい音(だと思う。ロックと言っても私にはすごく軽めのロック)にBTSの澄んだ声がきれいに調和している。

今回のコラボレーションについては,一部には「韓国が政治的にゴリ押しした」などという陰謀論を唱える人もいるが,BTSは,普通に欧米でもアラブでも環太平洋や環大西洋でも人気があるので,いくらなんでも陰謀論を振りかざしてBTSを貶すのは恥ずかしいことだと思う。欧米の音楽を子どもの頃から聴き続けている私にとっても,BTSが彼らのパフォーマンスで欧米のアーティストをコラボレーションするのは全く違和感がない。

もし日本人がコラボレーションを持ちかけられないのに変だというとしたら,それは残念ながら負け惜しみだろう。今の韓国のポップミュージックシーンには,日本人も中国人もタイ人もアメリカ人もその他様々な国籍の人たちがいて活躍している。彼らは世界に通用するアーティストになるために,世界で揉まれるために,日本であったり他の国だったり彼らがいた場所を離れて外国である韓国でオーディションを受けたりトレーニングを受けたりしているのだ。

もちろん欧米で直接デビューするという方法もあるだろうが,マーケティング的にそれが適切かというと難しい面がある。まず聞いてもらわないと話にならないからだ。だから日本人でも聞いてもらえる人は今でもちゃんと聞いてもらえている。ただ,BTSのように目立たないだけで。

K POPが全て素晴らしいとは,私は全く思わない。BTSは素晴らしい。しかし聞いていて耳障りなものだってある。見ていて腹が立つグループもある。例えば,ジェンダー的な偏見に媚を売っているようなものは大嫌いだ。また実際そういうグループは欧米で受けるだろうか? 少し疑問がある。KPOPの中にも最近ではジェンダーへの思い込みや偏見を利用しない,純粋にアート的なもので勝負するグループが出てきているので,そこには注目したい。しかし,某女性アイドルグループを筆頭とする,似たり寄ったりのガールズグループのほとんどは苦手である。

BTSは声を聞いてすぐわかる,それもミュージシャンとして大切なことだ。一山いくらのグループではないと言えるだろう。

My Universe は,聞き込むほどに味わいのある歌ではないかと思う。派手ではない。でもコールドプレイって派手ではない,元々。演奏も声もきれいなのだから良いことだ。

そんなこんなで,生まれて初めてYouTubeのチャンネル登録というものをした今日である。

お薬のこと

抗うつ剤のセロトニン再取り込み阻害薬(SSRI 製品名はジェイゾロフト)を増量してから1ヶ月ほどになる。薬の量のせいなのか他に理由があるのかまだ判然とはしないのだが,このところ頭痛と体の緊張が続いている。

頭痛は前からあったので「天気のせいかな?」と考えていたのだが,天気が良い日が続いているのに全く良くならない。光が目に刺さるような感じで痛くなる。テレビや携帯を見るときは,はっきりした色ほど見るとしんどい。

緊張は以前からあったのだが,体のある部分に力が入ってしまって自分の意思では力を抜けない,という状態。だが精神安定剤(デパス)を使うようになってからは,この緊張は和らいでいて,デパスを減らすと緊張が始まるという繰り返しだった。それが,デパスを減らしていないのに緊張が出るようになった。特に首筋と顎の緊張がひどく,とても痛い。顎はうっかりすると噛み締めすぎてしまい,筋肉がこわばって痛くて口を開くことができなくなってしまう。首筋の緊張は左側より右側が強い。右に首が曲がって引っ張られているような感じで,鏡を見ても右に曲がっている。

頭痛とこの緊張は一緒に出てくるようになって,思い当たるのはジェイゾロフトを増やしたことだけである。

ネットで心療内科や神経内科のサイトを調べてみたのだが,抗うつ剤と頭痛で検索すると,「三環系の抗うつ剤で片頭痛が緩和される」というものばかり出てくる。

やっと見つけたあるクリニックのサイトに「抗うつ剤の効果が出始めた頃に片頭痛が起こることがある。」とあった。理由をざっくりまとめると「脳内の情報伝達物質であるセロトニンには血管を拡張させる働きがあり,セロトニン抗うつ剤が効き始める時期にセロトニン分泌が増えることで血管の拡張が起こり片頭痛になる。」

抗うつ剤を使い始めたばかりや増量したばかりには,副反応で吐き気や嘔吐があるのだが,それは薬が段々と体に馴染んでくれば収まり,薬が馴染んで吐き気や嘔吐が収まる頃から,鬱状態で緊張して収縮していた血管がリラックスして拡張するので片頭痛が出る,ということらしい。

体の緊張については,検索してもほとんど出てこなかった。だが自分で考えるのに,体に力が入るようになったから緊張しているのだから,これも抗うつ薬の増量の結果ではないかという気がするのだ。抗うつ剤が安定剤に勝ってしまったような状態。

医師も薬剤師も「ある程度は薬の量を一定で続けないと結果がわからない。」とは言っていた。そして「この次の診療日(増量してから約2ヶ月)にまだ精神的な落ち込みがひどいようなら薬を変える。」とも言った。

SSRIの効果があるのかないのか,自分にはわからない。精神的に前向きになっている,元気になっているという感覚は全くない。今はただ頭痛と体の緊張が辛い。この状態が薬の効果なのか薬の良くない反応なのかもまだわからない。本当にひどい状態(緊張で痛みが取れないとか頭痛で動けないとか)になったら,診療日の前であっても減薬した方が良いのだろうか。

台風が発生したそうなので,低気圧のことを考えるとまだまだ状態が安定はしないと思うが,頭痛と緊張の様子見はしていこう。

曼珠沙華(ヒガンバナ)で思い出すこと①

ナナの散歩道にあった曼珠沙華が,全部しぼんでしまっていた。2〜3日前から色が褪せてきていたので,もうすぐ終わりかな?とは思っていた。

曼珠沙華の深紅の花を見ると,いくつかのことを思い出す。

一つが,小学生の時に国語の教科書に載っていた「ごんぎつね」の物語。もう一つが,列車通学していた高校時代に(電車ではなく汽車だった)ある通過駅の周り一面に咲いていた曼珠沙華のこと。もう一つが「東京喰種トーキョーグール」という石田スイ作の漫画。最後に北原白秋の詩。

列車から見た一面の曼珠沙華は「ごんぎつね」と北原白秋の「曼珠沙華」という詩をどちらも思い出させた。

「ごんぎつね」の中にはヒガンバナが赤い布のように一面に広がるという描写があって,白秋の詩でも地面にキリなく広がるヒガンバナの様子が描かれている。

作者の新見南吉が「ごんぎつね」を書いた時,実は決定稿がなかったそうで,出版される前とされた後に何度か書き直しているそうだ。そのため「ごんぎつね」のテキストが何通りかある状態がしばらく続き,今は大体同じものが使われているようだ。

偕成社版「ごんぎつね」

今一番知られている「ごんぎつね」は,偕成社から出版された黒井健の挿絵のものではないかと思う。いくつかの出版社から出された国語の教科書にもよく使われていた。私が小学生の時にはこの本は出版されていなかったので,挿絵は当然違う人の手によるものだった。またテキストの内容が今広く知られているものとは若干違っていた。

たとえば,新見南吉が生まれ育った愛知県の現在半田市になっている辺りでは,昔はフナのことをキスと呼んでいたので,新見南吉は「キス」という表現を使っていたが,それでは海に棲息しているキスと誤解されることからだろうか「フナ」と書き直したものがある。私が使った教科書でも「フナ」だった。しかし偕成社版や現在広く知られているテキストでは作者の育った地域の「キス」が使われている。(ひらがなで「きす」)

また,登場人物である兵十(ひょうじゅう)の母の葬列の通る辺り一面に咲くヒガンバナを喩える言葉が今では「赤いぬの」が普通であるが,昔の教科書には「ひもうせん(緋毛氈)」と書かれていた。そのため,私は「ひもうせん,て何だ?」と不思議に思って調べたものである。

そういう文章のことはどうでもいい,というといけないのだが,私は「ごんぎつね」を何回読んでも最後に泣いてしまったものだ。ここ10年余りは「ごんぎつね」を読んでいない。以前は仕事の関係で数年おきに読んでいたのだが。今読んだら、私は泣くことができるだろうか。私の涙はちゃんと出てくるのだろうか。適応障害で鬱状態になってから泣くことを忘れてしまい.嬉しいとか悲しいとかの感情もどこかへ忘れているので(犬猫やカメがいると嬉しいのだが),「ごんぎつね」への自分の心情を台無しにしたくないという思いがあり,ずっと読んでいない。

ちなみに私は偕成社版,黒井健挿絵の「ごんぎつね」の絵本を持っているが,小学校時代の教科書の挿絵は影絵を使って表現する藤城清治という作家さんのものだったので(だったはず),最初の印象が強いせいか時々その作家さんの挿絵をまた見たいなと思う。昔使った教科書は皆実家で保存していたのだが,台風被災した実家の片付けと取り壊しの際に処分してしまった。残念だ。

「ごんぎつね」は教科書の出版社によって,小学3年生で学習するか小学4年生で学習するかが変わっている。私は小学3年生で読んだのだが,先生の話はさっぱり聞かず,自分で勝手に最後まで読み進んで,最後にジワジワっと涙が滲んで教科書が読めなくなってしまった。他の子達が先生の進める通りに授業を受けている横で,一人泣いているような子どもが私だった。おかげで3年生の先生にはよく「ばか」と呼ばれたものである。私には全く泣きもせず普通の様子で授業を受けている他の同級生が,異様というか不思議だったのだが。

私が大人になってから出会った小学生のある女の子が「兵十は自分で自分をひとりぼっちにしてしまったよ。」と言ったことがある。「もし兵十がもう少し注意深かったら,ごんに気づいていたかもしれないし,ごんに対する感情も変わっっていたかもしれない。でも怒りの感情が先行していた兵十は,ごんを見るなり銃で撃ち殺してしまった。ごん以外もう誰も兵十を相手にしないよ。今までだって夜の集まりとかに行っても一緒に帰る人もいなかった。一人で夜道を帰る兵十を後ろから見守っていたのは狐のごんなのに。兵十はどう見ても友だちいないよね。お母さんもいなくなった。ごんもいなくなった。ひとりぼっちだね。ごんはひとりぼっち同士だから仲良しになれると思ったのかもしれないけど,兵十は頭悪いよね。でも最後に自分が馬鹿だったってわかったみたい。」ということであった。

もちろん,小学生だったのでこんなにスラスラ語ったわけではなかったが。彼女は,ぽつりぽつりと自分の考えを一文ずつ付箋に書いて,読書ノートを作って見せてくれた。新しい視点から物語を見た気がした。

小学生のとき,私にはただただ「動物が死ぬのが嫌だ」という悲しさがあったと思う(人間が亡くなる物語を読んでもあまり泣かないことの方が多いので)。だから彼女の感想を知って「なるほど,そうだな。」と思った。彼女の感想を聞くまで(聞いてからもではあるが),私は兵十が嫌いだったから。なぜ嫌いだったのか?「あ,私は感受性の鈍い人が苦手なんだな。」と思い至った。

物語を読んでいても,ASDであるとかHSPであるとかが,受け取り方に影響するのだ。

今日,ナナと一緒に散歩しながら,そんな風に昔の自分のことや,私に新しい気づきを与えてくれた女の子のことを思い出した。

北原白秋と「東京喰種」はかぶるところがあるので,思い出したら書いてみる。

BTSが国連で魅せる?

私がここ数ヶ月ハマって抜け出せなくなっている(やっとテレビを見る気が湧いてきたというのが数ヶ月前だったので)韓国のボーカルグループBTS(防弾少年団)が,昨日夜ニューヨークの国連本部でスピーチをした。今日のニュースはあちこちにその話題が出ていた。

国連のサイトには,7人全員が交代でしたスピーチと昼間もしくは前日あたりに撮影したと思しき彼らのヒット曲”Permission to Dance”のパフォーマンスのビデオ(会議場で上映されたようだ)が掲載されている。今回の議長のアブドゥルシャヒード(シャヒームだったか?)さんなんて喜んでいたようだ。アラブ人は踊るのが大好きだ。昼間に撮影されたビデオは,国連の議場からドアを開いて外に出て建物の周りにいた人達(あらかじめ配置?)が自転車を降りたり駆け寄ったりして一緒に踊り出す趣向。BTSはつい最近も世界各地に向けて”Permission to Dance Challenge”を行なっており,欧米やアジア,アフリカあたりから数えきれないほどのダンスチャレンジの様子がSNSで寄せられていた。

確かに世界の人の中には,かなり誹謗中傷する人もいる(特に日本だろうか)。けれど彼らは国連から直々に招待された人達なので(文大統領はオンライン出席でも良いと言われたらしいが),外交官パスポートが与えられたのは入国後の隔離期間短縮,隔離場所などの特別措置のためだろう。

私はたまたま難民の夫と結婚した関係で中東の外交官に会う機会が何度もあったが,割と出鱈目に立場を使っている人もいたので,それを考えたらBTSの方がずっと素晴らしい。

暗い状況に負けそうになる時期だからこそ,笑って希望を持とう,というのはあっても良い意見だと思う。

コロナ予防ワクチン接種についても訴えていた。韓国の摂取率は日本より低いそうだ。事情は色々あるだろうが,政治的なものもあるだろうし,私は韓国で力のある保守的なキリスト教団体などが反ワクチン活動をしているのではないかと少々疑っている。

保守的キリスト教徒は偏見や間違った教義(聖書に書かれていないことを拡大解釈)で動くことがよくある。たとえば「キリストの再臨するための場所としてイスラエルが必要だ」とかである。これは主にアメリカ合衆国の福音派キリスト教徒,韓国と日本の福音派キリスト教徒に多い考え方である。韓国では,イスラエルにも資金援助などをしているバリバリのシオニストが多い。シオニストが行きすぎて,キリスト教徒からユダヤ教徒に改宗してイスラエル人になってパレスチナ人を抑圧弾圧しようとする人が韓国やアメリカ合衆国にあまりにも多くいるので,むしろ現地の正統派ユダヤ教徒の人が戸惑うこともある。

こういうことは,何かしらの宗教の歴史の浅い国,たとえば,戦争後の韓国や日本におけるキリスト教,国自体の歴史が浅いアメリカ合衆国などによく起こる。日本や韓国などは戦時中にキリスト教徒であることで迫害されるからと適当に教義を変えてしまっているから,余計に厄介である。

宗教理念への正しい理解が不足しているのに「ただ一所懸命」「とにかく実行」になってしまうから恐ろしい面もある。

アメリカ合衆国やカナダでは,中東でパレスチナ人が一方的にイスラエルにミサイルや砲弾の攻撃を受けて逃げ場もなく傷つけられるだけの時,ユダヤ教徒がイスラエルに反対してデモなどしてくれる。なのに保守的(福音派)キリスト教徒がイスラエルを支持して平和解決を望むユダヤ教徒を迫害する。おかしな話である。

私は夫が難民で,夫の親戚に国連の仕事をしていた人もいた。また実際に夫が実家に帰っている間にイスラエルが攻撃してきた際,戦争状態になり夫と連絡が取れなくなって,あちこち公的機関に相談したことがある。その時にも色々調べた。

国連は今世界で溢れてきている難民を保護すると称してUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)を立てているけれど,UNHCRが設立されるより前に発生した難民であるパレスチナ難民には,全く何もしてくれない。「うちの業務ではありません。」と門前払いだ。パレスチナ難民にだけはUNRWA(国連難民救済機関)というものがあるが「難民はUNHCRが対処しているから」とか色々な理由をつけてUNRWAの予算は年々削られているのが現状で,パレスチナ難民はまともな医療も受けられず食物もない。そんな状態でパレスチナ人は70年以上難民のままでいる。

ガザやヨルダン川西岸,レバノン,シリア,イラクなどがイスラエルやアメリカに攻撃され荒廃し物資が何もなくなっても,UNHCRは何もしてくれない。UNRWAにはお金がない。せめて一つの場所に囲い込んで人々の頭の上にミサイルを降り注ぐことはやめてほしい,と中東の代表が国連で議題を提案しても,いつもアメリカ合衆国の保守派が拒否権を発動するので拒否され,人々は見殺しにされる。

もう20年近く,そんな状況を見てきた私は,めちゃくちゃ国連不信な面がある。国連に夢は見られない。

でもBTSが伝えてくる「暗い世界状況でこれ以上暗いことを考えていたら潰れてしまうから,きっと良くなるから未来にウェルカムしよう。」というメッセージはそれは若い彼らの誠意だとも思う。それに彼らはまだ20代なのだ。夢を持ってもいいだろう。

少なくとも,この数ヶ月,私はBTSのおかげで精神的に随分マシになってきたような気がする。起きて動く時間が増えたような気がするし歌を口ずさむこともある。音楽なんて,もう長いこと聞かなかったのに。

私の携帯には種々雑多な音楽が入っている。日本や韓国,UK,アイルランド,アメリカ、カナダ,フランス,ブラジル,オランダ,ドイツ、フィンランド,スウェーデン,モンゴル,イラク等々のロックやクラシックや民族音楽やジャズやアニメソングや・・・ありとあらゆる種類が入っているのに。母や姉や夫の介護の頃や,母が死んでからは,音楽を聞くこともあまりなかった。車の中で歌うこともなかった。数年前までは車を運転しながら音楽に心を揺さぶられて涙を流すこともあったのに,ここ数年はいつでもどんな時でも涙の一滴も出ない。

BTSを聴いたのはたまたまだった。壊れていたテレビのチューナーを交換して,最初に見たアメリカビルボードチャートの特集でBTSの曲が2曲か3曲チャート上位に入っていたから。それを聞いてからBTSの情報を追いかけ始めた。初めは顔の区別もつかなかったが,すぐに区別がつくようになった。興味を持つということは素晴らしいエネルギーを生むものだ。

BTSの歌で少し動けるようになった,ような気がする(気がするだけだが)。ナナの散歩もすごく短かった距離から少し伸ばすことができたような気がする。まだ食事はまともにできないが,きっといつか食事もできるんじゃないかと思う。

私の年齢だと「未来にウェルカム」は難しいけれど,若い人たちに何かしらの希望が持てるような世の中にするには,やはり大人が頑張らないといけないのではないかと思う。特に国連とか国会とかそういう重要なポジションにいる人間は自分の利権ばかり考えず,少しでも国民や世界のことを考えてほしい。それが難しいわけではあるが。

RM(キム・ナムジュン)が環境汚染や自然破壊について触れていたことも,自然の中にいることを好む私には大切なことだった。

RMはとてもIQが高くギフテッドだそうなのだが,音楽を志して大学へは行かなかったそうだ。でも多分彼ぐらいのギフテッドは普通の大学に行っても多分辛いと思う。軽度のギフテッドの私でさえ辛かったからそう思う。

彼らが今いる場所は彼らと彼らを支えた人達の功績だと思う。そして国連は割と有名人を呼んできてスピーチさせたり、国連のナントカ大使とかにして一般大衆の機嫌を取ろうとする。そんなかで彼らは彼らなりにメッセージを発信したのだ。偉そうなことをいくら言っても私生活がボロボロで周りを傷つけるような女優さんとかも国連のナントカ大使やスピーチをしてきたことを考えると,BTSの方が素晴らしい,と私は思う。

割と多くのアメリカ人と付き合ってわかったことだが,アメリカ人には世界地図(場合によってはアメリカの地図さえ)が入っていないことが多いから,世界を語るのは難しいし適当にそれっぽく誤魔化すしかない部分もあるだろう。アメリカ人に何回「日本は中国のどの辺?」と聞かれたことか。多分,私が会った中で日本や中国に興味を持っていて場所がはっきりわかっていたアメリカ人は,私の友人一人しかいない。欧米で暮らしていた知人達もおおよそ似たような話をする。

正直に言えば,決して今回のBTSの国連スピーチを手放しで賞賛したり喜んだりしているわけではない。

彼らには彼らのままでいてほしい。それが私を元気づけてくれる。国連がどれだけしょうがない組織か知っているので,あまり国連に利用されないと良いなと思うのだ。

来年あたりはBTSメンバーの中にも兵役義務に就く人がいるだろう。全員が揃っている今,3回目の国連への招待と2回目のスピーチ,彼らにとっても大切なことだったろう。

私は国連に夢は見ていない。だがBTSを招待したのは国連もかなり時勢を見たな,と感心したのだ。

金木犀(きんもくせい)

ナナの散歩道の途中に広い公園のような所があって,鯉のいる池や四阿(あずまや)や花の寄せ植えなどがある。地元の人達が散歩したり,中高生がスケートボードやバドミントンをしたりして,あたりが薄暗くなっても割と人がいる。

そこに金木犀の並木がある。本当なら今週ぐらいが満開で良い香りがいっぱい漂うものなのだが,先週から何度も風の強い日があって,せっかく花が咲き始め少しずつ増えたのに,一気に散ってしまった。とても残念だ。

散る前の花が増え始めた頃

金木犀の花言葉はいくつかあるが一つは「気高い人」だったと思う。

金木犀の品の良い香りが好きで,子どもの頃から「9月になると漂うこの心地よい香りは何だろう?」と思っていた。小学校5年生の時に,たまたま一緒に放課後委員会活動をしていた6年生が「金木犀の匂いが気持ちいいね。」と声をかけてくれて,その時から「金木犀」は私の中で特別な花になった。

私の実家の庭には森のように木々がたくさん生えていたのだが,金木犀はなかった。他の木の花も大好きだったのだが,どうしても金木犀が欲しかった。

小学6年生の終わり頃,町から小学校卒業生へのお祝いとして苗木をくれるという話があり,いくつか選択肢があったのだが迷わず金木犀を選んだ。

卒業する数日前にもらった金木犀の苗木を庭の日当たりの良いところに植えて,大きくなって花が咲くのを心待ちにした。

金木犀の木は大きくなった。思った以上に大きくなった。実は4〜5メートルぐらいの高さになることもあると知ったのは大分後のことである。

中学には金木犀の木はなかったが,高校では出入り口の前に大きな木があって,学園祭の頃になると良い匂いがして,元気が出てきて,文芸部の文集の印刷が誤字脱字だらけでも「チャチャっと直すぞ。」という気持ちになれた。

金木犀の香りは「気高い」というのが合っている。それにまっすぐ立つ常緑樹のキリッとした葉の形やツヤがやはり「気高い」

自分の中では9月といえば金木犀と曼珠沙華(ヒガンバナ)。曼珠沙華にも思い入れがあるが,今回はナナの散歩道の散ってしまった金木犀がとても寂しかったので書いてみた。

実は金木犀と曼珠沙華は,自分の大好きな「東京喰種トーキョーグール」と「東京喰種:reトーキョーグールアールイー」という漫画にも少し関わる所があるのだけれど,今は書ききれない。残念。

https://youngjump.jp/tokyoghoul/tg/

↑公式サイトがあった。もう3年も前に連載は終わっているのだが。

通院日

このところ調子が悪く,今週初めに予約を入れていたのに,クリニックに行けなかった。体に力が入らず,目が回っていたので,とてもではないが車の運転などできないと判断した。電話でキャンセルの連絡をすると,今週はまだ空いている時間があったそうで,そこに入れてもらうことができた。体調をよく見てからにしたかったので,少し遅めの時間にした。

今通っているクリニックは,現代人,特に大人の心の病や障害へのケアのためであろうけれど,午前中はあまり早くない時間に診療が始まって,夜割と遅くまで受診が可能である。医師の方々は1日に数人いて,週に数日出て交代というようで,先生によっては土日に診療が入っているので,仕事の休みに受診する人も多いようだ。

子どもの場合は心療内科ではなく,小児科で診てもらうか,小児科に紹介された総合病院に行くケースがほとんどだろうから,心療内科クリニックといえば,受診するのは大抵大人,あるいは高校生以上ぐらいである。

大人だけといっても,それでも受診する人は多い。私は夕方の午後診療が始まって2番目ぐらいの時間帯に予約しているのだが,私と同じぐらいの人やちょっと若いぐらいの人,学生さんかな?と思われる人,いかにも仕事をしていそうな人,等々が待合室にいる。今はコロナ感染予防のためにソーシャルディスタンスが求められているので,待合室のベンチでは皆さん一人おきに座っているが,私にはそれがとても難しい。

まず,他人が触ったものに触ることが難しい。洗ったり消毒したりすれば平気。死ぬほど我慢できないものではないが,どうにも難しい。だから子どもの頃から母に消毒用アルコールを浸ませた脱脂綿をもらっていたし,大人になってからは自分で消毒用アルコールを持ち歩くようになった。

だから公共の乗り物がものすごく苦手だ。元々普通の人以上に乗り物酔いしやすいためあまり公共の乗り物に乗らず(吐いたりしたら他の人に迷惑だし)自家用車を使っているが,どうしても乗る時には吊革に掴まれない。立ってバランスを取っている。

電車やバス,病院の待合室ではイスを除菌ティッシュでさっと拭くが,それでも怖い時は座らずに立っている。そもそも,新幹線のように窓が開かない列車や観光バスは怖くて息苦しくなってしまうので乗れない。どうしても乗らねばならない場合,たとえば夫の実家に行くときの飛行機や仕事で仕方なく公共の乗り物を使う際は,安定剤を1錠多くするなどして対応してきた。

心療内科に行っても,待合室のイスを消毒する。それができない時には立っている。

今週の通院日は,予約日と時間を変更したためなのか,たまたまその時だけだったのか,待合室がいっぱいだった。いくら一人おきにベンチに座っていても,ドアを開けて入った瞬間,マスク越しにもわかるひといきれで「うっ」と唸ってしまった。そのまま待合室の一つ隣にある受付のある部屋に戻り「ここにいてもいいですか。待合室がいっぱいなんです。」とお願いして許しをもらって待つことにした。

今回の診察で医師から「体調も精神状態もあまりよろしくないようだが,ジェイゾロフトは量を変えたばかりなので,もう少し今の薬で様子を見て,改善が見られなければ薬を変える。」という話があった。

1ヶ月前に抗うつ薬のジェイゾロフトを増やして,副反応の吐き気は体が薬に馴染むにつれて落ち着いて来たから,まだしばらく様子を見るということ。

ジェイゾロフトを増やして1ヶ月続けてみて,初めの頃は下を向いただけで吐きそうになっていたのが,ここ1週間ほどはゲップとしゃっくり程度になって来た。

ただそれは,食べていないというのも関係するかもしれない。あまりに吐き気が酷かったので,食べる気になれなかったのだ。(夫には勝手に食べてもらっている。)お茶とポカリスウェットと野菜ジュース,それから何か甘い物(だいたいは小豆の煮たの)を茶碗半分ぐらい。体重が少し減ったが激減というのではない。ちょっと服の腹回りや指輪が緩くなったぐらい。

ジェイゾロフトはSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の中では比較的効果が緩やかだそうだ。だから少量ずつ試していく初期の処方に使われることが多いという。私がこの薬を使い始めたのはもう随分前で,今通っている心療内科クリニックではない総合病院の総合診療科で処方されたのが始まり。

はじめのうちは1日1錠でなんとか調子が良くなって,だんだん2日に1錠になったのだが,職場が変わったことや(今は仕事はしていないので大分楽なのだが)母の癌手術と入院の遠距離介護,姉の自傷とミュンヒハウゼン症候群のような状態による救急搬送の繰り返し,夫の怪我と手術入院やリハビリ,実家の自然災害被災と家の消失などなど続いているうちに,1日2錠になり,更にそれでも無理ということで1日3錠になった。しかし副反応が私の感覚過敏のせいか異常に激しかったために減薬しては増やし,嘔吐を繰り返し,また減薬し,人格乖離状態になり,増薬し,嘔吐しの繰り返しになってしまった。

この次薬を変えるとしたら何になるのかわからないが,抗うつ剤の中でパキシルは既に体に合わないことがわかっているので,そこは医師と相談しなければならない。

薬の管理というのは,特に副反応や揺り戻し(精神的落ち込みがどっとくる)などの危険がある抗うつ剤では,医師と納得がいくまで話し合う必要がある。医師が受診者の言うままに大量に薬を出してくるところは,行ってはいけないと思っている。それは患者の体や生死について無責任だということではないかと考えるから。かといって絶対に正しく診断して治療してくれる医療機関というのは,少なくとも心療内科では存在しないような気もしている。

それでもなんとか生きている。