カサンドラ症候群にならないために頑張る①

カサンドラ症候群というのは,正しくは「カサンドラ情動剥奪障害」というらしい。

身内(特に配偶者)に発達障害(主に自閉スペクトル,アスペルガー症候群と言われていたもの)がある場合,相手を傷つけないように気をつけたり,相手の伝えたいことを先読みしたりして自分の感情がおざなりになってしまう。

そこまでやっても相手はこちらの話は聞いていないしコミュニケーションが取れない。つまり,相手は相手自身のことしか興味関心はないので,相互のやりとりではなく一方的に相手の要望だけが通ってしまうことでコミュニケーションが成立しない。

アスペルガー症候群の人というのは大学教授だったり学校の先生だったり公務員だったりと,何となく「良さげ」な仕事についていることが多く外面は悪くないので,身内としてその人と関わることがどれだけ大変で苦しいことかを訴えようとしても,「そんなはずはない」「気のせい」など,訴えた側が信用してもらえない状態になる。

自分が言っていることが誰にも信用されないので深く悩み傷つき自己肯定感が低くなる。自分のことも信じられなくなる。心身ともに病み始めて,疲労感の蓄積とか頭痛とか食欲不振とかパニック症状などが起こる(症状はさまざま)。

この「いくら訴えても信用してもらえない状態」を,ギリシア神話のトロイ戦争編に出てきたカサンドラという女性預言者の伝説になぞらえて「カサンドラ情動剥奪障害」というそうだ。

カサンドラはトロイの王女で,ギリシアから「パリスの審判」によって決めた「世界一美人」のヘレンを略奪して結婚したパリスの姉妹でアポロンから授かった予言の能力があったが,アポロンの求愛を断ったために「誰もカサンドラの予言は信じない」という呪いをかけられてしまった,と述べられている。

自閉スペクトルは女性より男性の方が割合がとても高いので,そのパートナーである女性がカサンドラ情動剥奪障害になることが多いという。

「信じてもらえない予言」という意味で言えば,パートナーに限らず家族全員が関係することだってあるはずなのだが。

私の身内には自閉スペクトルを有する者が多い。夫にも発達障害はあると私は踏んでいる。

夫は母国語の他に英語と日本語とイタリア語を話す。耳で聞いた言葉を記憶し再現する能力が高いが,彼はアイディアが閃くと突然180度方向転換し,それ以前に進んでいた何かしらの仕事というか目的を忘れて突っ走ってしまう。人を疑うことができず,文字や言葉をそのままに受け取ってよく騙される。反対に間違って疑いが生じると相手への誤解を解くのが難しい。一度誤った状態で入力されたデータを修正することができない。しかし非常に優しい人で,物腰も柔らかく,誰も彼がトンチンカンなことを始めるとは思わない。それをカバーするために私がどれだけ苦労するか誰も信じない。

しかしそれ以上に,両親と姉が酷かった。全員教職。父は校長で定年退職した。姉は旧帝大から博士号を取得しており,数カ国語で新聞や論文を読み自分でも数カ国後で論文を書く。父は古文書をそのままの文字で読める人だった。母は料理や編み物など一度見たり触れたりしたものをそっくりに再現できる人だった(編み物や裁縫では型紙も計算も必要としなかった)。両親ともに古文書の他に梵語も読めた。

両親は自分の思い通りにならないことや想定外のことが起こると癇癪を起こした。姉は何かに夢中になると寝食を忘れトイレに行くことも忘れる。そんな彼らとどうやってコミュニケーションを取れるというのか。だが社会的立場があるので,私が彼らのことをああだこうだ言っても誰も信じない。身内を謙遜していると思われるのが関の山である。

夫は,何となく慣れてきた。そして彼に合わせることをやめた。しつこく「〇〇は何を意味しているの?」「それはなぜ?」「どうしてそういうことを言うの?」「何を伝えたいの?」と聞くようにした。なかなか難しい。相変わらず彼からは「別に」で終わりそうになるので「それで終わりにするな。」と半強制的に聞き出すようになった。コミュニケーションなのか尋問なのか,と言う状態ではあるが話はできるようになった。ちなみに英語と日本語とアラビア語が混じった会話になる。

カサンドラ症候群にならないように,自分にできることからするしかないなと思う。

夫と私が出会った国のこと

https://news.yahoo.co.jp/articles/e3d132c1909e24f0798e99ec7b736567ce4d6aef

時事通信のニュースでレバノンの状態が出ていた。

レバノンは食料も医薬品も日用品も輸入に頼ってきた。特にシリアからの輸入が多かったのだが,10年前から始まったシリアの内乱で(これに関しては言いたいことが山ほどある)シリアからの輸入が激減し,ついには無くなってしまった。なので,シリア以外の国(例えば中国とかトルコとかサウジアラビアとか)に頼るしかなくなった。

昨年の8月にベイルートにある国際港(ラ・ポールと呼んでいる)が爆発してしまった。それは世界中でニュースになった。政府が管理をすべき危険な物品が港に置きっ放しになっていたための,完全な人災,政府の不手際だった。

レバノンという国は小さくて,日本で言ったら岐阜県ぐらいの大きさ。そこの首都なので決して広くはない。爆発した国際港のすぐそばに,シリアに向かう幹線道路や国際空港や金融街や繁華街や観光地や大学や病院や何もかもが集まっていた。それらは皆爆発に巻き込まれて吹き飛んでしまったり倒壊したりした。

元から不足していた食料品や日用品や医薬品は完全に供給を絶たれてしまった。

今人々はガソリンがないから車にも乗れない。石油がないから発電所は動かず(ガソリンがないから自家発電機も使えない)電気もない。電気がないので水の供給ができない。病人も怪我人も手当は受けられない。車が動かないから救急車などは動かない。消防車も動かない。バスもタクシーも動かない。どこへもいけない。最近はロバを飼育して移動や荷運びに使う業者が出てきたという。

食料がない。国連やNPOからの配給もどんどん減っている。一袋200〜300円ぐらいだった家庭用のパンが今では4000〜5000円ぐらいになってしまった。大戦後の日本の闇市もそうだったのだろうか。

夫の実家はシリアやトルコの国境に近い。国境を超えて武装勢力が来ることがある。

数年前には家の庭に砲弾が着弾して家中の窓ガラスが割れ壁が壊れた。

街の通りではシリアからの難民やパレスチナ難民,家を失ったレバノン人避難民などの間で諍いが起こる。銃は普通に出回っているからヒートアップしたら危険しかない。

ビザやパスポートの話でウガンダの元オリンピック選手のことを書いたけれど,ウガンダで30年ほど前から国が混乱しどこも危険で皆貧しいのは聞いていたけれど,それでも,1970年代のレバノンのパレスチナ難民キャンプのように「人肉以外食べるものがない」と訴えつつ次々餓死していく状態ではないと思う。

今日は天気は良かったけれど,何だか頭の中身が体から引き剥がされるような気持ち悪さが時々込み上げる。気圧が下がっているのだろうか。頭がまとまらない。

不機嫌ではないが,楽しいことが浮かばなかった。心を明るくするアニメでも見よう。

ビザとかパスポートとか

夫の帰化申請の準備をしている。

永住権も申請したが,そちらはまだ結果待ちである。

国籍やビザの問題というのは,人間がその人にとっての外国に滞在したり生活したりするために,必ず出てくるものである。

日本人が海外に旅行するだけでも,ビザやパスポートは絶対必要である。

私が子どもだった頃は,沖縄県はアメリカに占領されていたので,沖縄という「県」は存在せず,沖縄の人は本土に来るためにパスポートが必要だった。70年代半ばにフィンガー5というボーカルグループがあって,彼らは沖縄出身だったため本土に来る手続きが大変だったりいじめにあったりしたそうだ。

私が夫の住んでいたレバノンに行くためにもビザが必要だった。ビザをもらうためには,大使館に行って申請書やパスポートを出してお金を払って数日待つことになる。数日で出してもらえれば良いのだが,国によっては簡単にはビザは出ない。

アメリカ合衆国へ行くのも,今ではビザというか入国の手続きが面倒になった。2001年の911同時多発テロや航空機への靴型爆弾,ペットボトルでの液体爆発物持ち込みテロ計画を受け,アメリカ合衆国へは「はビザなし簡単入国」は不可能になった。また航空機全般への搭乗前保安チェックも厳しくなった。靴型爆弾があったから,今では保安チェックで靴まで脱がされるのだ。私がレバノンの友達に日本からお菓子を持って行った時にも,「マドレーヌでよかったですよ。これがプリンとかゼリーだったら保安チェックで没収ですからね。」と空港の係員さんに言われた。半流動体(ゲル状)のプリンやゼリーは液体同様「爆発物の疑いあり」として没収の対象になるのだ。

それでも,日本はビザやパスポートがあれば人として扱ってもらえる。

レバノンもそうだが諸外国の中には,パスポートがあろうがビザがあろうがIDカードがあろうが何だろうが,問答無用で留置場に放り込まれることがある。それも衣服を全部脱がされて裸にされることもある。日本の刑務所はどうだか知らないが,レバノンや諸外国の留置場はエアコンなんてないコンクリート剥き出しで,夏の暑さや冬の寒さで死にかけることもある(実際死んでしまう人もいる)。政情不安の国にいる知人や欧米で移民として暮らしている知人の中にも,街中で突然拘束されて留置場に連れて行かれた人がいる。特に理由はなく,街中で騒ぎがあったから誰かを捕まえておかないと格好がつかないとか,明らかに外国人の風貌だったからとか,とんでもなく出鱈目な理由であった。

最近,東京オリンピックに来日したウガンダ選手団の中から,逃亡して不法就労しようとしたが逃げきれずに出頭し,難民申請をしたいと言ったが結局大使館員に説得されて帰国したという男性がいた。この男性は帰国してから警察に拘束され数日後に釈放されたそうだ。

夫はこのニュースを聞きながら「ふざけてるよね。」と怒っていた。「こんなの難民じゃない。ウガンダが大変な状況なのはわかる。でも彼は国のお金で日本に来させてもらえた人だろう? パスポートも当然持ってるよね,貰えるよね。難民申請するなら来日してすぐに空港の入国管理局で申請できたのに。初めから不法就労が目的だよね。逃げきれなかったから出頭したんだよね。こんなの難民じゃない。それにウガンダはいつも頭の上をミサイルや砲弾が飛んでるわけじゃない。」

私も同意見だった。日本の入国管理局は正式で適切な方法で入国した人には,割と親切である。少なくともうちの夫はレバノンにいた時よりも人間扱いしてもらっている。知人の外国人の旦那さんや奥さんもだ。このウガンダ人選手を難民として受け入れなかったのは日本の落ち度だと主張する一部の日本人弁護士は,もうなんだかダメダメというか逆に外国人の立場を悪くしているような気がする。夫ではないけれど「それは違うんだ。」と叫びたくなる。

最初から不法な行動を狙うのではなく,正式な方法を何とか模索してもらいたい。

猫のワクチン接種(5種混合)

飼い猫に年1回の5種混合ワクチン接種を受けさせた。

うちの場合は,5種混合ワクチンを夏に,猫免疫不全ウィルス感染症(FIV)予防ワクチンの接種は冬に行っている。

5種混合ワクチン接種は6匹全員うちに初めて来た子猫の時からしていたが,最年少猫のピーチ姫が猫エイズと診断されたので,他の猫達にはエイズ予防をしっかりしようと思ったのが,ピーチ姫を拾った夏から半年後の冬だったのだ。

猫さん達はとても賢いので,キャリーケースを持ち上げるのを見ると「どこかへ連れていかれる,痛いこと(注射)をする所だ,絶対イヤだ。」と思うらしく,家中を走り回りソファの下やテレビの陰や冷蔵庫の上に小さく丸まって出てこなくなる。

なので,ご飯を食べさせるときにキャリーケースの中で食べさせるようにした。その結果,彼らはご飯をチラつかせるとドアの開いたキャリーに自ら入って行く。ご飯の前にキャリーを持ち上げてはいけない。逃げるから。

今回接種したのは,猫汎白血球減少症(伝染性腸炎),猫ウィルス性鼻気管炎(FVR),猫カリシウィルス感染症,猫白血病ウィルス感染症,猫クラミジア感染症を予防するためのワクチン。このワクチンで予防できる病気について,鳥取県のホームページに詳しく出ていたのでURLを貼り付けてみる。まだ貼り付けというかリンクがうまくはれないので心配。

https://www.pref.tottori.lg.jp/126884.htm

今うちにいる犬も猫も,皆混合ワクチン,猫エイズ予防ワクチン,狂犬病予防ワクチンの接種は欠かさないようにしている。というか狂犬病に関しては欠かしたら法律違反である。

子どもの頃から実家には動物がいた。犬,猫,ニワトリ,ウサギ,ヤギなど。近所では牛や豚や馬がいた。姉は今ひとつ動物と馴染まなかったが,私は人間より動物と一緒にいる方が好きだったし気持ちが楽だった。人間と一緒にいると汗をかいたり呼吸が激しくなったり叫びたくなったりと,いわゆるパニックを起こしていた。動物といる時はとてもリラックスしていられる。

だが,実家は田舎にあって,当時の日本では犬や猫の予防接種など狂犬病以外はほとんどなく,同じ町内の獣医さんは「家畜」を見る獣医さんで,小動物を見てもらうのには曜日や時間帯の制限があった(家畜を見てから小動物を見てくれる)。なので私も家族も動物の感染症に対しては全くの無知だった。

飼い犬がウィルス性感染症で亡くなった時も,ひどく暑かった夏に熱中症で亡くなった時も,フィラリアで亡くなった時も,亡くなってから原因がわかって,「どうして知らなかったんだろう?」「もっとちゃんと知らなくちゃいけない。守らなくちゃいけない。」と思うようになった。

今は予防接種,ノミ・ダニ予防やフィラリアをはじめとする寄生虫予防のための薬を使用するなど気をつけている。迷子予防のために首輪に名札,体内にマイクロチップも装着している。

でも,どんなに気をつけても,どうしても至らないことがある。それが苦しい。できることは何でもしたいと思う。自分に子どもがいないからかもしれないけれど。というか,子どもが亡くなって鬱病がひどくなってきた時の,夫の「猫でも飼おう。きっと気が紛れるよ。」との言葉が始まりだったのだけれど。

猫を見に行ったペットショップで柴犬を買って帰り夫に「どうして犬?」と目を丸くされ,結局同じペットショップで猫も買い(「安くしますよ」と言われたのがすごくイヤだった),その後保護猫が5匹と保護カメがやってきて大所帯になったけれど,今こうしてこのワンコや猫さまやカメといて安らかでいられるのは,ありがたい。この子達に恩返しできればいいと思っている。

センチメンタル・シティ・ロマンスというバンド

今日のニュースに,「中野督夫さん死去 日本最古のロックバンド「センチメンタル・シティ・ロマンス」」という見出しがあった。また寂しいことに日本でロックを広めるために頑張っていた人が亡くなった。

正直を言えば「日本最古のロックバンドはドリフターズだよね。」という気持ちがあるが。

多くの人にとってはお笑い芸人さんだったかもしれないけれど「8時だよ!全員集合」などのバラエティドラマが始まる前は,ザ・ドリフターズはロックバンドだった。1966年にビートルズが来日した際の武道館コンサートでは,ドリフターズはビートルズの前座で,英語の歌を歌っていた。

ドリフターズでなくても,サディスティック・ミカ・バンドやバウワウがいた。バンドではないがロックというかライムで聞かせていた中山ラビもいた(亡くなった人が多数含まれる)。彼らは1960年代から1970年代にちゃんと活躍したバンドやアーティストである。

センチメンタル・シティ・ロマンスが有名になったのは,1979年に公開された「金田一耕助の冒険」というコメディ映画のサウンド・トラックからである(それ以前から活動はしていたが)。レコードのジャケットは,当時すでに有名イラストレーターだった今では故人の和田誠氏(平野レミの旦那さんだった人)。

「金田一耕助の冒険」というのは,横溝正史の作品で知られる名探偵金田一耕助が,それまでに解決してきた事件や解決法を全てパロディにして爆笑に変えた映画であった。当時存命だった作者の横溝正史まで出演し「悪魔が来たりて笛を吹く」のセルフパロディをしていた。横溝作品を「人形佐七」以外は全て読んだ私にとっては,腹を抱えて大笑いできる小ネタ満載であった。

1970年代から1980年代初頭(横溝正史が亡くなった頃まで)は,角川書店の横溝正史作品が実に充実していた時期だった。当時映画化された「犬神家の一族」の「佐清(スケキヨ)」などは今でもガチャのカプセルトイになるくらい絶大なインパクトを残していた。

ネタバレになるから書けないけれど,映画の合間やエンディングに,センチメンタル・シティ・ロマンスの「センチメンタルな部分」が非常に重要な味を出していてストーリーに絡んでくる。このセンチメンタルさがこのバンドの良さなのかな?と当時高校生だった自分は感じた(はっきり言ってしまえば高1。同時上映は「蘇る金狼」の松田優作主演版)

エンディング・テーマの「旅立てロンリーボーイ」(アルバムの真ん中あたりに入っている)という曲を聞いた時,「あれ? ボストンじゃない?」と思った。ボストンの「Don’t Look Back」というアルバムの後ろから2番目の曲「Used To Bad News」にそっくりだった。だから,ボストンが大好きだった私はセンチメンタル・シティ・ロマンスも気に入った。でも「旅立てロンリーボーイ」はロックなのかな? ちなみにボストンのアルバムの方が1年早くリリースされている。

※YouTubeから「Used To Bad News」を貼り付けようとしたところ,どれをとっても「再生できません」になるので貼り付けを諦めた。

ボストンというのは1976年に 「More Than A Feeling (邦題「宇宙の彼方へ」)」で大ヒットし,アルバム1枚しか出していないのに武道館で来日公演をした時にはアンコールをされてもアルバム1枚分しか曲がないためずっと同じ曲をアンコールで演奏したというバンドである。

ボストンのアルバムは,バンドというかリーダー(ということになっている)トム・ショルツ(マサチューセッツ工科大学出身の機械オタクっぽい人)が,全て自分で演奏して自分で多重録音して作ったアルバムなのでライヴのために急いでメンバーを集めたというユニット。数年に1枚しかアルバムを出さないため,ファンもいればヒットもしたのに忘れられていると思う。

60年代〜80年代の日本は,ロックというものがまだ定着していなくて,ロック=外国の音楽,という意識が強かったと思う。そんな中で草分け的に活動してきてくれた人たちが亡くなっていくのがとても寂しい。

中野さんお疲れ様でした。

ありがとう「プリズン・ブレイク」主演俳優ASDをカミングアウト

https://news.yahoo.co.jp/articles/954e5ded2b904e50a35780e23753763162c5ec03

Yahooに出ていたニュース。元の記事はコスモポリタン誌。

日本でも2000年代に人気があったアメリカのドラマ「プリズン・ブレイク」で主演していた俳優,ウェントワース・ミラー氏が40歳代になってから「自閉症」と診断されたという記事。

「ああ,また芸能人だったなぁ。」とかぼけっと受け止めた。ADHDやASDをカミングアウトするのは芸能人とスポーツ関連の人が多いけれど,本当は他の職業の人にももっともっといるだろう。でも本人も周りの人達も気づいていない,或いはカミングアウトできないでいるのだろう。

自分の場合,カミングアウトが難しいのか難しくないのかよくわからない。多分,同じ職業でも職場によって違うだろうとは思う。

今飲んでいる薬はジェイゾロフト(抗うつ薬),デパス(精神安定,緊張をほぐす),エスゾピクロン(睡眠薬),抗うつ剤の副作用で逆流性食道炎と胃炎がひどいためスルピリド(胃薬)ナウゼリン(吐き気どめ)。ザイザル(アレルギーの薬。食物・花粉・ダスト・接触アレルギー等があるので)

初めて飲んだ抗うつ剤はパキシルだったが,副作用で横になると胃液や胃の中身が逆流してしまい休養も睡眠も取れなくなってしまった。その時かかっていた心療内科の先生が感情の起伏が激しい人で(診療開始間も無くや休憩後は機嫌がいいが,疲れてくると非常に怒りっぽくなり患者を馬鹿にしたり罵倒したりしてくる),「副作用で眠れない」などと言おうものなら,「あんた何言ってるの? ふざけてるの? よその病院に行ってもいいのよ。でも自分の思い通りになるなんて思ったらダメよ。」ときつい言葉をぶつけてくるような人だった。

なので,元々の持病(無痛性甲状腺炎,ヒルシュスプルング病,アレルギー,片頭痛)で他の病院にもかかっていたので事情を話したところ,ジェイゾロフトを処方された。おくすり手帳があったので,その後は問題なく持病でお世話になっていた病院からジェイゾロフトとデパスを処方してもらえるようになった。

ADHDとASDがあることはわかっていたのだが,検査をして発達障害と診断されたのは5年前,再検査でやはりADHDとASDがあると診断されたのが半年前。5年前に診断を受けた際にADHDの薬であるストラテラも処方されたのだが,体質に合わず吐きまくってしまったので「服用は無理。ストラテラ中止」となった。

今は大体薬があっている。ADHD自体に対しては「指差し確認」「見えるようにする(透明の袋や目の前に必要物を置くなど)」といった行動療法というか薬以外の面から対応するように臨床心理士さんのカウンセリングで伝えると継続した方が良いと言われた。

自分の仕事は人と関わる内容だったのだが,相手が子どもであれば平気だが大人だと非常に苦しい,ということがわかっていた。子どもは突然色々なことが閃いてそれを行動に移すアクティブさがあるけれど,大人はまず否定から入る,というのが原因であるのはなんとなく感じた。

否定から入るってどうなんだろう? それで人生楽しいのだろうか。というか,「あれは危ないからダメ,これも危ないからダメ」「前例がないからダメ」と何もかも否定されるのはASDがある自分は「身動き取れない」状態になるしかないのだが,多分ASDやADHDがなくても全否定されたら身動きできなくなると思う。

会議でもなんでも全部「でも」「だって」「やっぱり無理」で堂々巡り。それに会議と言っても何を話し合うわけでもない,レジメを読み上げるだけ。レジメなんて会議の前に目を通しておけば会議の場ではもっと話し合いができるしアイディアだって出せるだろうに。

自分が知っている人でアイディアが次々浮かんでくる羨ましい人がいた。だが頭の回転に口が追いつかず,表現で手間取ってイライラし,うろうろ歩き始めたり声をあららげたりすることがあった。すると周りはその人の行動を否定する。アイディアそのものは見ない。

そういうことが何度もあった。見ていて辛い。

適応障害や鬱の原因はそれだけではないが,それが原因の一つであることはわかっている。ADHDとASDだけが原因で障害が出てきたわけではない。

自分もカミングアウトしたい。というか何度もしてきたのだが「いやいや,そんな」「冗談ですよねぇ」とスルーされてきただけ。このスルーするという行為は相手の気遣いかもしれないが,かえって落ち込む。ADHDやASDというものが社会的に否定されているような気がするから。

否定されるのは嫌だ。肯定されれば誰だって嬉しい。

せめて自分だけは自分を肯定していたい。

そんなわけで,今日は「ウェントワース・ミラーさん,ありがとう」な気分だ。

足の爪を剥がしちゃった件

昨日うっかり両足の小指の爪を剥がしてしまった。

子どもの頃に何度も爪を剥がしたので,小指の爪が縦に3つに分かれて生えてくるようになってしまった。爪の生えてくるところの根っこを傷つけたのかもしれない。

暑かったので靴下を脱いでボ〜ッとしていた時,その3つに分かれてボコンボコンとなった爪に手が触ってしまった。

そうなるともう止まらなくなってしまった。

「やめないと爪が剥がれる,いかん手を離さなければいけない」と思うのに,手は動き続け,あっという間に左足の爪が剥がれてしまった。そこで止まらず右足まで気になって気になって,気づけば右足の小指も爪が剥がれてスプラッタ。化膿しないように清潔にして様子を見ることにする。

止めようとしても自分が止まらない。生傷は絶えない。

夏のクサガメ

夏になると,クサガメがワサワサワサワサ勢いよく動き出す。

9月末ぐらいに水温が下がると動きが鈍り,冬の間は水槽にカメ用ヒーターを入れないと動けないしご飯も食べられなくなる。3月ぐらいからじわじわ動きが出てきて,5月末ぐらいから活発になり,夏の間は「ハイなんじゃないかな」と思うほど動く。

今日水槽の水を交換する時には,水を抜こうとするのに対抗するかのようにワシャワシャ走って日向ぼっこ用の石の下に潜り込もうとした。そして頭を突っ込んでいた。

彼の名前はマイキーという。

名前の由来は「ミュータント・ニンジャ・タートルズ」という映画である。レオナルド,ラファエロ,ミケランジェロ,ドナテッロという,イタリア美術の巨匠達の名前を冠したミュータントで人間大になって人語を話すカメの忍者の映画。私の好きなキャラは明るく元気なミケランジェロ(マイケランジェロと発音するんだが)で通称マイキー。だからうちにいるカメの名前もマイキー。

クサガメはオスの方がメスより小さい。マイキーのサイズと尻尾あたりの様子から「オスだ」と判断した。

マイキーがうちに来るまでには紆余曲折があった。そして名前がマイキーで定着して7〜8年になるが,その前は名前がなく「カメ」「亀吉」「カメくん」などその都度適当に呼ばれていた。

夏になって,元気にモリモリご飯を食べるマイキーを見ると安心する。冬は,ヒーターで温まって動き回るのに今ひとつご飯の進みが悪いから,このまま動けなくなるんじゃないかと心配になるのだ。ヒーターにも気をつけておかないといけない。マイキーが頭を石やヒーターの下に突っ込んでガメラのようにぬぉ〜っと持ち上げて,火事防止のサーモスタットが働いて知らない間に壊れているから。ヒーターは多分毎年買い換えた方が良い。寒い時に水槽から脱走して柴犬の横で丸くなっていたこともある。

夏はヒーターがなくても活動しやすく,秋冬に向けた栄養のためどきなので,今日も元気に動いて食べてもらいたい(しかし水を換えてからなんだかおとなしい)。

国際結婚とは何だろう? その1

私の夫は難民である。

日本に来てから難民になったのではなく,彼の祖父母の世代で国から逃れなければならなくなり,彼の親や彼は外国に作られた難民キャンプで生まれて育ったのだ。

たまたま縁があって出会って結婚した。だが難民の彼にはビザが交付されず,彼が日本に来ることはできなかった。なので,私が彼が住む国へ再訪し(知り合う前から知り合ってからまで何度もその国へ行っている),その国の役所で結婚し,彼の身内に祝ってもらい,私だけ日本に帰国した。次に私が日本の入国管理局へ行き,夫を呼び寄せるために必要な手続きを尋ねた。

何だか評判がすごく悪いのだが入国管理局の人達は、私や夫にはいつも親切だ。

夫に頼んで彼の出生証明書,家族の住民登録証明,難民としてのID,パスポートの写し(実はこのパスポートは彼が住む国の政府が特別に発行するトラベルドキュメントというもので,なんと生年は記載されているが誕生日は記載されていないというとんでもないものである),私との結婚証明書,その他やたらたくさんの書類を集めて送ってもらった。

そのうちの結婚証明書を持って地元の市役所へ行き,婚姻届を提出するのだが,ここで「え? そんな国あるんですか?」ということになった。そんな国というのは,彼の本来の国籍であるパレスチナが当時日本では国として認められていなかったからである。

そのため婚姻届は受理されず,法務局に問い合わせるからということで保留となった。その数日後市役所から連絡があり「受理できるそうですよ。」と明るく言われたが,こちらの気持ちは「前途多難の予感」であった。

婚姻届が受理されてから市役所から本籍のある町の役場へ届けが行って,戸籍に夫の名前が記載されるのだが,ここで問題になったのが夫のパスポート。国籍がパレスチナと書かれているのだが,日本国が国家として認めていなかったパレスチナは夫の国籍として戸籍に記載できない。仕方なく,市役所や役場や法務局の出した妥協案が「生まれも育ちもレバノン共和国でパスポートを発行しているのもレバノンなら,レバノン出身の誰それと結婚,と備考欄に記載すればいいのじゃないか?」だった。

そういうことで何とか戸籍に夫の名前が載った。

入国管理局に提出したのは,管理局の窓口でもらった申請書や身元引受証明書にぎっちり記入したもの,夫に送ってもらったアラビア語(一部英語)の書類を自分で翻訳し,タイプしプリントアウト。原本のコピーをとり(原則として入国管理局には原本を提出する),備考欄に夫の名前のある私の戸籍謄本と私の住民票,私の在職証明書,私の源泉徴収票,知り合って結婚に至った経緯をつらつらと綴った3〜5枚(理想的には1枚)のA4用紙,証明写真や収入証紙等々。事務用封筒がとても分厚くなっていた。

書類を提出して待つこと数ヶ月(早ければ6ヶ月普通で1年と言われた),やっと夫の「日本人の配偶者等」という滞在資格ビザが発行された。それを急ぎ彼の元へ送り,彼が受けとって航空券を手配して来日。

結婚して同居までに半年かかったが,これはまだ早い方だと言われた。特に夫が難民で自国のパスポートがないというのが大変に難しいところなのだ。

実はレバノンで夫と結婚したその日に,在レバノン日本大使館に電話してビザの入手は可能かと尋ねていたのだが「無理ですね。」と大使館員さんからあっさり一言だった。しかし,もう既に正式に結婚しているなら外務省の管轄ではなく法務省の管轄で「呼び寄せ手続き」「配偶者のビザ申請」ができるので,日本に戻って入国管理局の支局などで相談すると良いですと言ってくれた。その時「レバノンにある難民キャンプ出身のパレスチナ難民が日本人と結婚して日本に行くなんて聞いたことがない。」という話を聞いた。入国管理局でも前例がないからビザ交付が可能か可能であればどのくらいの期間を要するかわからない,と言われた。

そんなわけで,今夫は日本に住んでいる。手続きと役所の窓口での粘りとゴリ押しなど我ながらよくやったと思う。

で,ここまでやったんだけれど,夫は私にとっては普通に夫だし,来日して20年近くも経つので,業務スーパーとかカルディやダイソーやセリアが大好きで,コンビニのおにぎりについては私より詳しい人になった。JRや地下鉄の乗り方や乗り継ぎなど車を常用している私にはほとんどわからないことまで妙に詳しい。

なんだか,国際結婚しているという意識は全然ない。他の人から「国際結婚なんですか!」と言われて「あれ?そうですか?」と返事をしそうになるのだ。

実家にあったクジャクサボテン

私の実家は,数年前に自然災害に被災して1階部分が損壊し,住むことができなくなり解体すした。

親ももう亡くなってしまい,建物もないので,実家に帰る理由がなさそうだが,土地はまだ残っていて離れの建物があるので時々帰る。母屋の2階にあって無事だった物,たとえば本やレコードやCDなどは離れに避難させ,じわじわと片付けている。姉もいるのだが,普段は遠方で仕事をしているし私以上に片付けができない。

被災した時,家屋の外にあったものは全て流されてしまった。

私と母が可愛がっていたメダカの水蓮鉢もシクラメンやサボテンの植木鉢も,何もかも流されてしまった。

メダカは,とても可愛かったし,水蓮鉢の中に生態系を作ったところだったのと,何より生きて泳いでいた命が消えてしまったことがたまらなく辛かった。

サボテンは花のさく種類がたくさんあって,クジャクサボテンやシャコバサボテンの赤い花はとても綺麗で目を癒してくれた。

母がまだ入院している時にクジャクサボテンがとても見事な大きな花を咲かせたので,写真を撮って病室で見せた。母は「こんなに綺麗に咲いたんだ。」と少し笑ったようだった。

サボテンがなくなりがっかりしていたのだが,先日叔母(母の妹)が「綺麗な花が咲いたから見て」と写真をLINEで送ってくれた。「うちにもこれと同じ花があって綺麗だったんだけど」と返信すると,「これは姉(母のこと)がくれたの。入院するだいぶん前に会った時に株分けしてもらった花が今年やっとさいたの。」と言う。元は一つの花だったのだ。

「まさか,何もかも一瞬で無くなってしまうとは思わなかったから。また見られて嬉しい。」と返信した。

叔母は「いつかこの花を株分けして里帰りさせよう。」と言っていた。なんだか,普通の日常のようだった。天災や親の死や実家喪失やなんだかんだあったのに。

サボテンの色は大好きだ。