亡くなった両親と紅玉りんごと夫のことを考えていたら,まるで自分と両親が良い家族関係だったかのような錯覚をしてしまう。
私の両親は,外面は非常に良かったが実は毒親だった。私はなんとか逃げ出したが,姉は両親のために心を蝕まれてしまった。そのおかげで,今姉との関係を適切に保つのが難しい。
父親も母親も,今でいうところのモラハラ人間で,子どもというのは自分がかつて望んでも得られなかった賞賛や見栄を満足させるための道具あり,親の手駒であると無意識にであっただろうが信じ込んでいた。子どもが自分達の思い通りにならないと,罵声での人格否定から張り手やゲンコツがとんできた。母親には包丁を持って「(自分の思い通りにならないなら)死んでしまえ」と追いかけられた。また父親は自分の実の母親である私の祖母を,私の母親とともに虐待していた。
夕食の場面は毎日戦場だった。父親が祖母を面罵し時にはこづいたり殴ったり,母親はそれを見ながらもしれっとしていた。姉は怒鳴り合いの食卓がいづらくなると部屋に閉じこもってしまい,私が一人で両親に対して祖母を庇って,それが気に食わない父親に怒声を浴びせられて場合によっては殴られた。祖母を庇うということが,私の父親にとっては自分に逆らうこと,自分を否定し侮辱することと受け止められたのかもしれない。
父親は母親の手前「妻を第一にする夫」を演じたかったのだろうか?それもあるだろうが,おそらく「家族の中に一人犠牲を作ること」が父親にとっての家族支配のルールの一つだったのだろう。私もまた,祖母を庇いつつも「自分が精神的肉体的に痛めつけられない方法」を探り,目の前の現実から逃避することもあった。祖母にきつい物言いをしてしまうとか,結果的に両親の狙う方向に行ってしまうとか。
幼児期から毎日が両親との戦いだった。休日に両親が家にいるのが嫌でたまらなかった。
そもそも私の日常生活の世話をしてくれていたのは祖母であって,両親ではなかった。持病のヒルシュスプルング病で度々起こる腸閉塞に苦しむ時,私を背負って病院まで走ってくれたのは祖母だった。母親は私や姉の健康状態に無関心だった。父親は「具合が悪い」などと言おうものなら「ふざけるな」「忙しいんだ」「お前が悪い」と怒り出した。祖母がいなかったら,私は幼児期に命を落としていたと思う。もし親から逃げ出していなかったら,やっぱり私は今こうして生きていなかったと思う。子供の頃から繰り返し自傷していたから。
幼児期は,私は風呂に入る時も祖母に任せられていた。昔の風呂は釜で湯を沸かすので,風呂が深いし周りの釜は熱されると大変熱くなり触れると火傷をするほどだった。小学校に上がる前までの家は茅葺の日本家屋で馬屋まであって,だが風呂は家の外にあった。祖母が何かしらの作業で手を離せない時には一人で夜屋外に出るのが億劫で,祖母が農繁期で近所の手伝いで忙しい時などは私は垢まみれになっていた。母親はそんな私を見て「汚いから(臭いから)近づかないで」と言うこともあった。時には濡れた布で顔をゴシゴシ拭かれることもあった。
それとは別の選択で,姉は自傷の一つで「風呂に入らない」という選択をすることがあった。そのためだろうか,今の姉は強迫的に風呂に入りたがり,体調がすぐれないのに無理をして風呂場で倒れることもあり,それが非常に問題である。
子ども時代の私の夢は「いつか外国に行くこと」だった。それから,顔が濃いめで髭のある人,できれば西アジアの人,もっと言えばパレスチナの人と(幼児期に毎日のようにパレスチナ問題とベトナム戦争のニュースを見ていたからだろうか?)結婚すること。その点で言えば,夢はかなったのだろう。
高校になると,進路というものは現実的というか,世の中の世知辛さに晒されてくる。進学校であると同時に,教員養成課程のある国公立大学への進学が多かった高校で(やっと出会った)友人らが「教員になる」という目標を持って受験勉強をする中で,私には何もしたいことがなかった。本を読んで,音楽を聴いて,試験勉強とかは特にしなくてもそこそこの成績をとって卒業はできるだろう,という程度。
高校3年になっても何も目標が見つからず,卒業だけして1年家に閉じこもった。高校の教科書を自分でやり直すための勉強をして昼夜逆転生活もした。だが,まあ,主に犬や猫と話をしながら,空に向かって空気や鳥に語りかける日々だった。両親がいない昼間,学校がない日々が幸せだった。それに,学校の先生がいないところで自分のペースでできる勉強は面白かった。教科書って面白いことも書いてあるものだな,と思った。
小学校から高校までは,ずっと学校が大嫌いだった。両親が象徴するものでもあったし,強制された集団行動がとにかく苦手だった。そんな私を当然両親は毎日罵った。両親は私に姉と同じ大学(旧帝大)に行かなければいけないと言った。どだい無理な話である。無理な話なのに,ノートが取れないADHDの私が,進学校を卒業できただけでもすごいと思うような親ではなかった。
当時私が一番に決めた目標は「家を出る」ことだった。
大学はどうしても行きたいところができた。片想いしていた人がいる大学に入って後輩になりたかったから(入学後その人は私の同級生に一目惚れして婚約していたが)。
この大学は私立で,入学するのはすこぶる簡単(試験がすごく簡単)だが,卒業するのが意外と難しかった。面白い教授が多く,イングリッシュ・ジャーナルなどに取材される先生や6ヶ国語を操る先生がいて,外国人の教授が近隣の公立大学より多く,キャンパスのつくりも外国のようだった。外国人の教授や国立の教育課程から移ってきた割とクセのある教授達の研究室を訪ねて,お茶やお菓子を出してもらいつつ教授の講義,哲学や宗教,心理学や精神病理学,外国文化等々について話をするのが好きだった。
小中高と先生に嫌われていた(小学1〜2年生もちあがりの担任以外は皆私を嫌がった)ので,新鮮だった。教授達は私の話を真剣に聞いてくれた。体調が悪そうな時には心配してくれた。ヒルシュスプルング病からくる腹痛と嘔吐で苦しむ生徒を「受け持ち生徒が早退すると校長からの評価が下がるから」と早退させてくれなかった高3の担任とかとは大違いだった。
その大学でできることで尚且つ家を出るために役立つことは、資格を取得することだった。家を出るためになら,努力というものをしてみようと思ったのだ。
毒親をサバイバルするためには,物理的に精神的に離れることが必要だが,その最短距離は就職することだと思う。できれば資格があると選択肢が広がるはずだ。
だから,大学卒業と同時に正規職員として就職してからも,割と有名な大学の通信教育課程でいくつかの資格を取得した。通信教育は自分なりにできるので,私には合っていた。インターネットの発達した現代なら,海外の有名大学が公開している講座も受講できる。私の時代にインターネットがなかったのは残念である。それでも「みんな一緒」「みんな同じ」という状態を強制される苦痛がない分,通信教育課程は学習しやすかった。
世の中には,私のように他人と同じペースを強制されると身動きできなくなってしまう人間がいる反面,「みんなと一緒」でないと不安になる人がいる。同じ職場で出会った人達の中にも資格取得のために通信教育を受講する人がいたけれど,脱落するか課程終了が著しく遅れる人も多かった。
仕事に必要なある免許を取得するために,1年コースを受講したことがある。私は半年で終了したが,同じ職場の人が1年で終わらず延長手続きをしていたことで,人間関係がギクシャクしたこともあった(その人がとても繊細だったのか性格に問題があったのかわからないが,嫌がらせを受けた)。私が見ていた限りにおいて,その人も親が相当だったから,焦りや苦しさがあったのかもしれない。
親から逃げなければいけない時がある。生物学的に親は親だ。この親だから自分なのだろう遺伝子的には。だが,生き残るために親から逃げよう,そう思うことが多いのだ。