金木犀匂う

こんなに花がたくさん咲いた。

ナナの散歩道にあった金木犀は,先日かなりの強風が吹いたためほとんど散ってしまった,と思っていた。

ところが先週ぐらいから好天が続いたためだろう,また花が咲いて更に増えてきた。今は家の中まで爽やかな匂いが漂ってくる。金木犀は花自体は地味かもしれないけれど,この独特の花の香りが他のどの花とも違っている。どこにいてもそれとわかる匂いなのだ。花言葉は「気高い人」

ナナとの散歩も,この匂いにつられて私が歩く方向へナナがついて来てくれる。

以前「トーキョーグール」と金木犀の関連を書いていたのだが,そもそも主人公の「金木研(カネキケン)」の金木という名前が金木犀からきているように思われる。

金木犀の花言葉が「気高い人」であることからも,主人公の性格を表していると思う。ただし,作中にはカネキ以外にも「気高い人(グールだったとしても)」が幾人も登場する。一見悪だがある意味気高いと言える人もいる。

「東京喰種トーキョーグール:re 」という第2部になると,「木犀章」という勲章のようなものが出てくる。曼珠沙華といい,この作者は秋の花が好きなのだろうか。

この作者は,セリフも色々書き込んでいるけれども,どちらかというと何か場面にある一つの物や一人の人物の位置やポーズで何かを暗示することが多いと思う。少なくとも「トーキョーグール」では。これは作者の初めての連載だったそうだが。

北原白秋の詩や,白いカーネーション,曼珠沙華,木犀,蝶,ピエロ等々で暗示されるものがたくさんある。

伏線は回収されているのだが,暗示や比喩,言葉にされていない部分で語られることが多いので,読み取り方によっては回収できていないような気持ちになってもやっとする人もいるかもしれない。

私は主人公のカネキはもちろん大好きなのだが,ナキという教養がないために頓珍漢な発言や凶暴な行動をするが,実は真っ直ぐな部分があるキャラも好きだ。

「 ZAKKI」という「トーキョーグール」の画集が2種類出ていて,その2番目の,より分厚く中身の濃い画集の中にある,ナキと彼が慕っていたヤモリという男の会話のイラストが好きだ。ヤモリは金木を拷問して人格までかなり変えてしまった男だが,彼自身もまた人間によって拷問されて人格崩壊してしまった犠牲者でもある。そのヤモリがナキに対して「人間が神と呼んでいる存在」について語るシーンがイラストになっている。

このイラストは「トーキョーグール√A 」という,本当にどうしようもなく原作からかけ離れたアニメのエンディングに出された物である。毎週違うイラストが出て,「トーキョーグール√A」はどうしようもないが,作者オリジナルのエンディングイラストは最高,と言われているようだ。

ヤモリがナキに優しい言葉で「神」について説明するのだが,ナキは素直にヤモリが自分にとっての神だと言うので,ヤモリは苦笑する。そういうストーリーがイラストから見えてくる(セリフも入っているが)。アニメの本編よりエンディングのイラストが物語だった,と言うすごいものであった。

そんなこんなで,金木犀は今日も「気高い」何かを感じさせてくれるように匂っている。

BTSとColdplayの My Universe コラボMV

コールドプレイのチャンネルで,BTSとコラボした”My Universe”の歌詞ビデオではなくて,ColdplayとBTSが出ている動画が公開された。

「昔々,星々の間では音楽が禁止されていた。サイレンサー(沈黙させるもの)が見張っていて音楽を楽しむものは狩られてしまう。しかし,エイリアン・ラジオのDJがそれに逆らい,異なる惑星の3つのグループ(Cold Play, BTS, エイリアン)をホロバンド(ホログラムのバンド)として団結させた。」というストーリー。エイリアンはCG(特殊メイクもあるのか?)。最後までストーリーがしっかりあるのが素晴らしい。

残念なことに,このMVはLyrics版同様貼り付けられない。なのでYouTubeで頑張って繰り返して見てください,ということなのだろうと思う。

これを見ていると,前にColdplayがリリースした”Higher Power”のMVとも世界観が近いような気がする。

“My Universe”を初めて聞いてから感じていることがある。これをBGMにして,アーシュラKル・グィンが著した,ハイニッシュ・ユニヴァースのシリーズを読んだら気持ちがよかろうな,と。

もちろん全部ではない。好みとしては「辺境の惑星」のエンディングあたりとか,「所有せざる人々」のエンディングあたりで聞きたい。「闇の左手」や「アオサギの目」「世界の合言葉は森」などには合わないかな,と思う。

「辺境の惑星」は,悲しい場面もあれば戦いの場面もあるが,最終的には未来に希望があるような気がするから。

ハイニッシュ・ユニヴァースというのは,ル・グィンが作り上げた遠い未来の宇宙の物語。地球人が移住した星,地球人とほぼ同じ姿あるいは異なる姿の先住民がいる星,等々が宇宙連合的なエクーメンという組織に属していたり「所属してください」とエクーメンから使節を送られたりしている。

未来の宇宙は,ル・グィンが執筆活動をしていた20〜21世紀の世の中で,多くの楽観的な人々によって考えられたような,進歩的で明るいものではない。戦争は相変わらずあり,人種差別があり,富める人々が貧しい人々から搾取する社会があり,と何千年何万年も前から繰り返されてきた人類の歴史そのまま。ル・グィンは,いわゆる現代社会そのままを「宇宙」という範囲に広げて描いている。

ル・グィンはお母さんが高名な文化人類学者だった(岩波書店から著作の翻訳本も出ている)影響から,作品には文化人類学や社会学に通じる面がある。また東アジアの哲学に造詣が深く,特に道教や荘子の思想をよく作品に用いている。

BTSの”Spring Day”という歌のMVに,ル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」からインスパイアされた場面がある。「オメラスから歩み去る人々」は掌編小説だが,同時期に発表された長編「所有せざる人々」と似たところがある。この2編は対になっているというか,双子のような作品だ。

「オメラス」というのは舞台となる場所の名前。ちなみに,ル・グィンが「オメラス」という名前を思いついたのは,彼女が自分の住んでいたオレゴン州ポートランドからドライブをして,同じくオレゴン州のセイレムという街を通った時に,標識を見たのがきっかけだという。Salem, Oregon が車の動きのため salemO に見えたから反対側から読んで「オメラス」になったという。

ついでに,私の知人に,本当にアメリカ合衆国オレゴン州セイレム出身,という人がいる。とても素朴で優しい人である。見せてもらったセイレムの街の写真も「うわ〜のどか」というもので,この街で育つとこうなるのかなぁ,と思ったものである。

BTSのMVや歌の中には「花様年華」という,大作フィクションのストーリーに沿った内容のものがある。”Spring Day"もその中に入るようである。しかし,同時にこの歌はいくつかの独立したメッセージを発信していて,一つはセウォル号沈没事件の犠牲者や遺族への哀悼,一つが「オメラスから歩み去る人々」の「歩み去っていく人のいく道のその先」などである。

「花様年華」は,ル・グィンの「天のろくろ」に似たところがある。「天のろくろ」は荘子の「天じん(漢字を忘れた。吊り下げられたもののことらしい)」を英語に翻訳する際に,若干の誤訳があり「じん」が「ろくろ」になったと高校時代に読んだサンリオ文庫(廃刊)の後書き(翻訳者の脇明子によるものだろうか)にあった。

さらに「花様年華」には”Butterfly"という歌もあり,MVの中にも蝶の絵のカードや蝶が舞い上がるシーンがある。これがまた,荘子による「胡蝶の夢」という話を思い出させる。

BTSのリーダーであるRMは大変な読書家だそうだが(辻仁成作品も好きだそうだ),この調子で行くと,BTSのMVで壮大なハイ・ファンタジーが作られそうな気がする。その作品を見てみたい,本を読むように物語に入り込むように感じてみたい。

東京喰種(トーキョーグール)と北原白秋 曼珠沙華で思い出すこと②

しばらく前に曼珠沙華の花のことを書いた。ナナの散歩道にあった曼珠沙華の花が全て萎れ今年の彼岸が過ぎていくことをかんじ。一昨日彼岸も終わり(彼岸の中日は9月23日),もう9月もすぐに終わる。

私の実家周辺では,昔は曼珠沙華は彼岸頃から咲いていたものだが,今では地球温暖化のせいか年々早く咲くようになっている。今住んでいる地域は実家より大分南にあるので,余計に早く枯れてしまったのかもしれない(根は残っているだろうが)。

高校生の時には,通学に使う列車の窓から緋色の毛氈のように一面に広がる,真っ赤な曼珠沙華の群生を見たもので,その様子は小学校の教科書にあった「ごんぎつね」と,中学の時に読んだ北原白秋の「曼珠沙華」をいつも思い起こさせた。

北原白秋の「曼珠沙華(ヒガンバナ)」は童謡の歌詞で,曲は山田耕筰が作ったそうだ。山田耕筰は小学校の音楽の教科書にも出てくるので,今でもその名を知っている人はいると思う。私は初めそれを知らず,「曼珠沙華」は普通の詩だと思っていた。

以下「曼珠沙華(ヒガンバナ)」の引用。

Gonshan,Gonshan 何処[どこ]へゆく
赤い お墓(はか)の曼珠沙華(ひがんばな) 曼珠沙華
けふも[きょうも]手折り[たおり]に来たわいな

Gonshan,Gonshan 何本(なんぼん)か
地には七本 血のやうに[ように] 血のやうに[ように]
丁度 あの児[こ]の年の数(かず)

Gonshan,Gonshan 気をつけな
ひとつ摘(つ)んでも 日は真昼 日は真昼
ひとつあとからまたひらく

Gonshan,Gonshan 何故(なし)泣くろ
何時(いつ)まで取っても 曼珠沙華 曼珠沙華
恐(こは)[こわ]や 赤しや まだ七つ

引用以上。[ ]部分は旧仮名遣いなので付け足した。

「ゴンシャン」というのは,北原白秋が育った地域の言葉で「お嬢さん」「良家の令嬢」などを表す。「お嬢さん,お嬢さん,どこへいく?」と聞いた時には,マザーグースの歌を思い出した。白秋もマザーグースの翻訳をしていて「まざあぐうす」という詩集がある。だから,少し意識したのかもしれない。

私の中では「血には七本血のように」の部分が強烈であった。厨二病を拗らせていた頃だったのもある。

仕事をしていた頃のある時,アニメの専門チャンネルを見ていた私は,たまたま見ようと思っていた番組の前か後かにあった「トーキョーグール」を何となく見ていた。ちょうどシーズン1の最終回だった。

今になると,あのアニメのシーズン1最終回の中には色々おかしいところもあるのだが(原作通りにすればよかったのに)。原作にもあるシーンで,拷問にあっている主人公の金木研(この金木は金木犀に引っ掛けている)が頭の中にイメージしている理想の女性であるリゼと会話する。このリゼは実際にも金木のイメージの中でも,かなりの曲者である。

金木の体の中にはリゼの体の一部が移植され,そのため金木がグール(昔話では人食い鬼のこと)になった。でも金木は元々が心優しい文学青年なので,人を喰らうことなどできない。グールのことですら食べられない。自分は人間だ,とずっとグールであることを否定している。

頭の中で,金木はリゼと問答しつつ,金木の子どもの頃の記憶をリゼとともにたどっていく。その記憶の中では,金木の理想の女性の究極の姿だった母親が,白いカーネーションで象徴されている。しかし,母は金木にとって理想で,だから金木はリゼのような女らしく落ち着いた(しとやかな)女性が好きだったのに,実は母親に対して複雑な感情を抱きつつそれを隠していたこと,本当は母親に言いたかったこと,等々に気づいた金木は,感情を爆発させる。

爆発した金木の感情と,頭の中のリゼが彼にじわじわと問いかけ深層心理に気づかせる過程を象徴するのが深紅の曼珠沙華である。

金木が「ぼくはグールだ。」と自分の今の姿を受け入れるとき,亡き母を象徴する白いカーネーションがどんどん曼珠沙華に変化していく。

その時みた「トーキョーグール」のアニメの色は,あまりにも鮮やかだった。その瞬間「作者は福岡県か佐賀県出身かな?」と頭に浮かんだ。「それとも北原白秋が好きなのかな?」と。

どうしても鮮やかな曼珠沙華と「トーキョーグール」の関係が知りたくなって,コミックを全巻(古本含む)揃えた。「トーキョーグール」だけでなく「東京喰種:re」も揃え,一気に30冊読んだ。読み応えがあった。小説版も読んだ。そして,アニメが色々省略しているのでおかしかった部分は,コミックと小説の一気読みで納得できた。その後画集も買って細かい設定や,作者の解説も読んだ。

アニメは色がきれいで(漫画は白黒だから曼珠沙華が真っ黒)声優も好きだったのだが,やはりストーリーを味わうためには原作を読まないといけない。アニメはかなり端折っている上に,シーズン2は原作に追いついてしまったためにアニメ完全オリジナルストーリーになってしまい,シーズン3に繋がらなくなってしまった,というとんでもないことになっている。シーズン3も省略し過ぎて何が何だかわからなくなったところが多数ある。一体全体アニメの現場で何が起こった?という,もはや私の中では大惨事。

「東京喰種」から「東京喰種:re」へつながる重要な鍵でもあるエピソードでも北原白秋は出てくる。「老いしアイヌの歌」の一部である。アニメでは完全にカットされている。

(以下引用)

彼アイヌ,眉毛かがやき,白き髯胸にかき垂り,家屋(チセ)の外(と)に萱畳敷き,さやさやと敷き,厳かしき(いつかしき)アツシシ,マキリ持ち,研ぎ,あぐらゐ[あぐらい],ふかぶかとその眼凝れり(これり)。

彼アイヌ,蝦夷島(アイヌモシリ)の神,古伝神(オイナカムイ),オキクルミの裔(すゑ)[すえ]。

ほろびゆく生ける屍(ライグル)。夏の日を,白き日射を,うなぶし,ただに息のみにけり。

(以上引用)

この白秋の詩の中には「生ける屍(ライグル)」が出てくるが,これに作者は人の姿で人でないグールを重ねているのではないかと思う。

私にとっては,白秋の文体も馴染みがあるが,祖父母がかつて北海道で仕事をしていたので(私の祖父は日本だけでなく仕事をして回っていた),その時住んでいた地域を訪ねてアイヌの文化に興味があったので「アツシシ」とか「アイヌモシリ」とかは懐かしい響きがあった。「オキクルミ」は子どもの頃に読んだ,佐藤さとる作「コロボックルの物語」にもあったので知っていた。

またトーキョーグールの主人公である金木研(カネキケン)は,大学では文学部国文科専攻の学生という設定なので「これは北原白秋を研究するんだな。」と解釈した。

作者が福岡の人かな?と思ったのは,今時北原白秋がすんなり出てくる人って,同じ地元なのではなかろうか,と考えたから。コミックスを読んでいくと,福岡や九州北部の言葉がいくつか出てくる。というか,わからない言葉があったので調べたら福岡の言葉だった。たとえば鶏肉を「かしわ」と呼ぶとか。

そして実際に作者は福岡出身の人だった。

そんなこんなで,最近は曼珠沙華を見たときに思い出すものが,「ごんぎつね」「北原白秋」「緋毛氈」「田舎の駅」「実家周辺」だけでなく「東京喰種トーキョーグール」も加わった。

「トーキョーグール」は,至る所に伏線があるので,普通に本を読むように楽しめる。アニメは色がきれいだっただけにストーリーが訳がわからなくなって残念。アニメの現場が大変というのもあるだろうが(大人の事情もあるだろうが),現場に北原白秋や文学に造詣の深い人がいなかったので,余計でたらめに細切れにされてしまったのだろう。でもアニメから入ると色が頭の中で出てくるから,それはそれで受け入れることにしている(漫画は白黒だから)。

曼珠沙華(ヒガンバナ)で思い出すこと①

ナナの散歩道にあった曼珠沙華が,全部しぼんでしまっていた。2〜3日前から色が褪せてきていたので,もうすぐ終わりかな?とは思っていた。

曼珠沙華の深紅の花を見ると,いくつかのことを思い出す。

一つが,小学生の時に国語の教科書に載っていた「ごんぎつね」の物語。もう一つが,列車通学していた高校時代に(電車ではなく汽車だった)ある通過駅の周り一面に咲いていた曼珠沙華のこと。もう一つが「東京喰種トーキョーグール」という石田スイ作の漫画。最後に北原白秋の詩。

列車から見た一面の曼珠沙華は「ごんぎつね」と北原白秋の「曼珠沙華」という詩をどちらも思い出させた。

「ごんぎつね」の中にはヒガンバナが赤い布のように一面に広がるという描写があって,白秋の詩でも地面にキリなく広がるヒガンバナの様子が描かれている。

作者の新見南吉が「ごんぎつね」を書いた時,実は決定稿がなかったそうで,出版される前とされた後に何度か書き直しているそうだ。そのため「ごんぎつね」のテキストが何通りかある状態がしばらく続き,今は大体同じものが使われているようだ。

偕成社版「ごんぎつね」

今一番知られている「ごんぎつね」は,偕成社から出版された黒井健の挿絵のものではないかと思う。いくつかの出版社から出された国語の教科書にもよく使われていた。私が小学生の時にはこの本は出版されていなかったので,挿絵は当然違う人の手によるものだった。またテキストの内容が今広く知られているものとは若干違っていた。

たとえば,新見南吉が生まれ育った愛知県の現在半田市になっている辺りでは,昔はフナのことをキスと呼んでいたので,新見南吉は「キス」という表現を使っていたが,それでは海に棲息しているキスと誤解されることからだろうか「フナ」と書き直したものがある。私が使った教科書でも「フナ」だった。しかし偕成社版や現在広く知られているテキストでは作者の育った地域の「キス」が使われている。(ひらがなで「きす」)

また,登場人物である兵十(ひょうじゅう)の母の葬列の通る辺り一面に咲くヒガンバナを喩える言葉が今では「赤いぬの」が普通であるが,昔の教科書には「ひもうせん(緋毛氈)」と書かれていた。そのため,私は「ひもうせん,て何だ?」と不思議に思って調べたものである。

そういう文章のことはどうでもいい,というといけないのだが,私は「ごんぎつね」を何回読んでも最後に泣いてしまったものだ。ここ10年余りは「ごんぎつね」を読んでいない。以前は仕事の関係で数年おきに読んでいたのだが。今読んだら、私は泣くことができるだろうか。私の涙はちゃんと出てくるのだろうか。適応障害で鬱状態になってから泣くことを忘れてしまい.嬉しいとか悲しいとかの感情もどこかへ忘れているので(犬猫やカメがいると嬉しいのだが),「ごんぎつね」への自分の心情を台無しにしたくないという思いがあり,ずっと読んでいない。

ちなみに私は偕成社版,黒井健挿絵の「ごんぎつね」の絵本を持っているが,小学校時代の教科書の挿絵は影絵を使って表現する藤城清治という作家さんのものだったので(だったはず),最初の印象が強いせいか時々その作家さんの挿絵をまた見たいなと思う。昔使った教科書は皆実家で保存していたのだが,台風被災した実家の片付けと取り壊しの際に処分してしまった。残念だ。

「ごんぎつね」は教科書の出版社によって,小学3年生で学習するか小学4年生で学習するかが変わっている。私は小学3年生で読んだのだが,先生の話はさっぱり聞かず,自分で勝手に最後まで読み進んで,最後にジワジワっと涙が滲んで教科書が読めなくなってしまった。他の子達が先生の進める通りに授業を受けている横で,一人泣いているような子どもが私だった。おかげで3年生の先生にはよく「ばか」と呼ばれたものである。私には全く泣きもせず普通の様子で授業を受けている他の同級生が,異様というか不思議だったのだが。

私が大人になってから出会った小学生のある女の子が「兵十は自分で自分をひとりぼっちにしてしまったよ。」と言ったことがある。「もし兵十がもう少し注意深かったら,ごんに気づいていたかもしれないし,ごんに対する感情も変わっっていたかもしれない。でも怒りの感情が先行していた兵十は,ごんを見るなり銃で撃ち殺してしまった。ごん以外もう誰も兵十を相手にしないよ。今までだって夜の集まりとかに行っても一緒に帰る人もいなかった。一人で夜道を帰る兵十を後ろから見守っていたのは狐のごんなのに。兵十はどう見ても友だちいないよね。お母さんもいなくなった。ごんもいなくなった。ひとりぼっちだね。ごんはひとりぼっち同士だから仲良しになれると思ったのかもしれないけど,兵十は頭悪いよね。でも最後に自分が馬鹿だったってわかったみたい。」ということであった。

もちろん,小学生だったのでこんなにスラスラ語ったわけではなかったが。彼女は,ぽつりぽつりと自分の考えを一文ずつ付箋に書いて,読書ノートを作って見せてくれた。新しい視点から物語を見た気がした。

小学生のとき,私にはただただ「動物が死ぬのが嫌だ」という悲しさがあったと思う(人間が亡くなる物語を読んでもあまり泣かないことの方が多いので)。だから彼女の感想を知って「なるほど,そうだな。」と思った。彼女の感想を聞くまで(聞いてからもではあるが),私は兵十が嫌いだったから。なぜ嫌いだったのか?「あ,私は感受性の鈍い人が苦手なんだな。」と思い至った。

物語を読んでいても,ASDであるとかHSPであるとかが,受け取り方に影響するのだ。

今日,ナナと一緒に散歩しながら,そんな風に昔の自分のことや,私に新しい気づきを与えてくれた女の子のことを思い出した。

北原白秋と「東京喰種」はかぶるところがあるので,思い出したら書いてみる。

「カールじいさんの空飛ぶ家」の思い出

アメリカの俳優で声優のエド・アズナーが亡くなったというニュースがあった。

https://www.bbc.com/news/world-us-canada-58380089

「カールじいさんの空飛ぶ家」のサイトは ↓

https://www.disney.co.jp/studio/animation/1015.html

91歳だったそうだから,私の好きなアニメーション映画「カールじいさんの空飛ぶ家」に出演した時には80歳前後だったのだ。あの映画は,普段あまりピクサーのアニメを見ない私が,ティザーを見たらなんだかすごく興味が湧いて,リアルタイムで見ることにしたピクサーアニメーション。

ところが,オープニング数分でカールじいさん夫妻が子供を失うシーンを見て,涙が溢れて止まらなくなって,慌てて席を立ちトイレに駆け込んで,声を上げないようにして泣いた。でも泣きすぎて息が切れそうになった。自分自身が子供を失って数年しかたっていなかったから,その日のことがフラッシュバックしてしまったのだ。

その時は一人で見に行ったので,夫はいなかった。後で「あのアニメ映画どうだった?」と尋ねられても「ちょっと,始めのところで泣き出してしまって,結局見られないまま帰ってきた。」と答えるしかなく,夫は変な顔をしていた。

しばらくして(1年ぐらい?)テレビで「カールじいさんの空飛ぶ家」が放送された。夜ということもあり夫も在宅だったので,二人で一緒に見ることにした。

子どもが亡くなって,カールじいさんはなんとかして奥さんを励まそう元気づけようとするのだけれど,二人ともだんだん歳をとっていって,奥さんは年齢的に一緒にハイキングに行くは体力が衰えていたし,歳をとって二人きり(カールじいさんは結構コミュ障)の生活の中で失った子どものことも思い出して切なかったろうしで,元気がない。

そして奥さんがカールじいさんより先に亡くなってしまって,ひとりぼっちになったカールじいさんは偏屈になった。

夫と一緒に見ていたので,子どもが亡くなるシーンで泣きそうになったが,グッと我慢した。私はどうしても誰かに泣くところを見られるのが苦手だ。

そして,奥さんが先に亡くなるシーンでも「この奥さんは,ちょっとASDっぽい旦那さんのカールがひとりぼっちになってしまうことが,きっと心配でたまらないんだろうな。」と思った。

私自身が夫より大分年上なので,私の家系の長寿で私が長生きすればほぼ一緒の頃かもしれないが,私がやっぱり年上分だけ先に旅立つかもしれない。でも夫だけ一人残して帰らない帰れないところへ行くことは,とても心配で気がかりなのだ。

幸せに生きて欲しいけど,夫のADHDっぷり(夫は私と違い診断を受けていないが)で大丈夫だろうか?それにすごく人を信じやすいナイーブな人なのだ。カールじいさんのように偏屈になるのも寂しいけれど,信じやすくて騙されやすいのは気がかりだ。今は父方のいとこ達に会うと夫の見守りを頼もうかどうかと考えてしまう。

カールじいさんは,あるアジア系の少年に出会って,夢のような冒険に出かける。それは奥さんと出会った頃の少年時代の彼の夢でもあったもの。奥さんとは廃屋の冒険で出会ったから,奥さんが生きていたら,一緒に行けたろう冒険。でも一人ぼっちではなくて,バディになってくれる少年がいる。

このあたりになると,かつて大泣きして全部見られなかったことは横に置いておいて,カールじいさん達と一緒にハラハラドキドキしてきた。

映画を見終わった時に,夫は「君が前に映画を見ようとした時,泣いてしまって見られなかった箇所,どこか分かったよ。」と言ったが,それ以上は何も言わず「でも最後まで見られたね。良かったね。」と喜んでくれた。私も,夫がどの場面のことを言っているのか分かっていたと思う。

子どものことを思うたび,自分を責めて周りを責めて毎日泣き叫んでいた時期がある。夫にとっても辛い時期だったと思う。夫はなんとか私を慰め前向きにしようとするのだが,それが帰って私にはしんどくて「そうじゃない。そうじゃないんだよ。」と泣くばかりだった頃。

あれから,よくあることかもしれないが,苦しいことや難しいことを夫婦で乗り越えて,なんとか今に至るのだが,適応障害のせいなのかなんなのか,ここ数年は泣くことも笑うこともあまりできない。涙は全然出てこない。実家が被災した時も母が亡くなった時も,多分悲しさ辛さはあったのに,まるで他人事のようで自分ではない誰かに起こっていることのようで,自分はどこか遠くにポツンといるようだった。

また「カールじいさんの空飛ぶ家」を見たら,泣くことができるのかな? 感情が動くのかな? 

最近は「泣きたいだけ泣きたいのに涙が出ないし感情が自分を置き去りにする。」というのが課題。色々な感覚が自分を置き去りにしていることも課題。

でもあの時,夫と一緒に映画を見直すことができて良かった。

from Disney Pixar’s Up Official Trailer

「呪術廻戦」再開ニュースが嬉しい

一昨日? 少年ジャンプで連載中の「呪術廻戦」(6月末から休載していた)が再開されるというニュースを読んで「よっしゃぁ!」という声が出そうになりました。

アニメが始まってから読み始めて,気づけばコミック全巻とファンブックまで揃えたくらいなので,休載は寂しい気持ちもありました。でも,作者である芥見先生が健康であることの方が重要なので「休んでください。無理しちゃだめです。」という思いの方が強かったかもしれません。

それに,芥見先生は自分の子どもぐらいの年齢の方だから,これから先の人生を考えていけば1ヶ月と言わずもう少し休んでも良いくらいではないのだろうか? とも考えます。

無理をすることが美徳だなんて,あんまり思えないのです。

無理をして,その場で死んじゃったらどうするの? ということも考えます。

パレスチナ難民と結婚した自分の周りでは,戦争とか死とかが当たり前になってしまっていて,若者の死というのは言葉にできない切ないものだから。

ゆっくり生きていきましょうよ。